2012年7月4日水曜日

東京やめた



 「われわれが生であり、われわれが未来である」(タルナック・アンチ・カストール委員会)。
未来に未来はない。なぜなら、われわれの生が未来だから。

東京なんてやめちまえばいいのに。放射能なんて死ねばいいのに。

2012年7月2日月曜日

四角いオヤジたち

(東京新聞02/07/2012)





オッサンの夢は装置になること。

推進派、経済ぶりっこ、科学ぶりっこは装置にかぎりなく近づく。
言葉で特定されなくても写真をみただけでわかってしまう。
左の人がいい人かどうかわからないが、
右の人はあきらかに装置ぽい。
左の人のような人が近づいてくると、 オッサンは警戒する。
右の人のような人が近づいてくると、 オッサンは安心する。

祝島のじいさんばあさんは堂々としているが、
推進派は役場からNPOから漁師まで
みんなコソコソしていてシルエットが四角く装置臭い。
飯田哲也は装置っぽい気がするので
上関はひきつづき要注意である。

頭のわるい者Aの回答

勝手に糞まじめに回答します。

東京は低線量被曝動員地帯です。
私が東京を離れない理由はただひとつ、
愛する者がそこにいるから。
愛する者たちが東京を離れたら私も離れると思う。
それはキズナとか社会ではないので、
私は我慢してとどまっているのでなく、すすんで東京にいる。
なにもかもが変わったとはっきり思ういっぽうで、
情動や感情の面ではなにも昔と変わっていないかのように
よろこびとかなしみがかわるがわるおとずれている。
ひとりで田舎に行ったら装置みたいになってしまう気がする。
というか、私はあのあとじょじょに壊れて、
いろいろなタガがはずれてしまったので、
むしろ清々して徳が増えたような気さえしていて、
変な高揚があるのです。

あれ? それこそが動員、それも魂の動員ということか。
そういうわけで、思想家矢部史郎が
ひとりでも多くの人間を関東から退避させたいと書いているのは、
なるほどそういうことかと思います。
ひとり、またひとりと東京を離れれば、
いっさいの愛の錨が作用しなくなる。
そのときはじめて原子力都市東京の崩壊ということになるのでしょう。
発展の綱領、ちんこの夢としての
原子力都市の残滓だけが問題なのではなくて、
ほんとうに魂の戦争ということになってしまったのだろうか。

私にとって問題なのは、
愛する者といっしょに退避できるかどうかだけです。
そして重要なのは、「いっしょに退避する」には、
「ひとり×2」以上のカネがかかるということだと思います。
結局カネか。そうですね、結局、カネです。

正直な気持ちをいうと、いま日本にいない人は、
できるだけ帰ってこない方がいいような気がします。
日本では2年前と比べてとくに食うことについて、
もしゼロベクレルないし限りなくベクレルフリーでいこうと思ったら、
異様に糞カネがかかります。
(私は水や食物を選ぶせいで借金が増えました。)
東京はそういうのが突出しているので論外だが、
では東京以外では楽々防護生活ができるかといえば、
そうでもないでしょう。
東京では陸続と、若者だけでなく老年も具合が悪くなっています。
大飯のボロ機も動きだしてしまったので、西も怪しくなりました。
まきちらしたがれきを夜中にコソコソ燃やしているため、
九州でも静岡でもゲボゲボ具合が悪くなりだしています。
わざわざこのような危険な場所に戻る必要があるとは思えません。
被曝動員にかんして意味がわからないような、
頭のわるい外国滞在者にはずっとそのままでいてほしい、
というのは被曝動員者のわがままでしょうか。わがままですね。

東海アマさんは、安全な畑で自給自足でやっていくしかない、
と書いていたけれども、
私じしんは農業とか別に全然やりたくないんだけど、
でも愛する者たちと共同農園をやるならいいかな、とも思います。
しかしさ、日本に「安全な土」なんてあるのかねえ?

けれども、どうなるかわかりませんよ。
大飯で、官邸前で、新宿で、
いまにもナニしそうな人にいっぱい会うことができます。
おそろしい出来事がおきて、なにもかもひっくりかえるかもしれない。
いまは不可解な静態にみえても、ほんとうの動乱は、
ばたばた人がたおれはじめるこれからでしょう。

2012年6月30日土曜日

東京低線量被曝動員(頭のわるい友人たちへ)

頭のわるいゴミのようなことを頭わるいままに書きます。 現状認識から42.195キロおくれています。まさにアウトです。だから頭のわるい友人以外は読まないでください。


 ***


留学中である。博士論文なんて書けそうもない。金も尽きてきた。とにかくいったん帰国する。さて、東京に帰るかどうか。どうせ東京に帰ってもフリーターだろう。大学ではたらけるわけがない。そこで連れ合いとアルバイトのダブルインカムでかつかつの生活をするとして、そういう財政ではたして低線量地帯をサバイバルできるものだろうか。カネがないものだからあやしげな食品を買って食ってあとで後悔して、体に不調が出てきているような気がして、じっさい不調も出てきて、不安になって、その不安をごまかしつつクソみたいなバイトをして酒飲んで寝て……死んでもタバコとか酒のせいにされて……東京なんて低線量被曝動員ではないのか? 東京は嘘にまみれているのではないか? 正直なところ、反放射能(ゼロベクレル派)のひとたちの東京にいることの理由は何? 会社? 政治? 思想? 大学? 人間関係? 社会的地位? やっぱ安定した収入? なにげにやりがい? 逃げたくても逃げられない、だとか、内部被曝の被害はむしろ油断が生じる遠くにあらわれるからどこにいても同じ、だとか、田舎の塾講師みたいなことはぜったいやりたくない、だとか、あるいはそういう職すら見つけるのがむずかしい、だとか、そういう理解でOK? なぜこういうことを問うかというと、こういう点にかんしてはっきりと分からないからです。というかそこがいちばん知りたかったりするのですが。じつはそこらへんは教えてくれないですよね。お前には関係ない? おれにはおれ、わたしにはわたしの個人的事情がある? ひとりで決めるしかない? 頭脳のないフリーター確定人間のルサンチマンに聞こえちゃったりするのでしょうか。でもとにかく自分のばあい、生来の健康状態(病弱)と今後の身の振り方を考えるなら、東京低線量被曝動員はありえないというか、つきあいきれないという思いでいっぱいです。東京に、低線量被曝に、動員されたくありません。「それでいいんじゃないの」とか答えて自己完結させないでください。

 大飯原発ゲート前行きたい!!

2012年6月24日日曜日

2012年6月4日月曜日

オッサン的エートスを除染する






「純文学とは極私的言語の戦闘的保持、
書くことを前に進ませる意志と複数の基準を許す自由である。」
(笙野頼子)

大好きな「チダイズム」のテクストが、

中学生以下のおつむのオッサンどものせいで停止。
東電国家大企業なみに許せない。
絶対に許さない。
きさまらのやっていることは「科学」とは何も関係ない。
文学への、表現への宣戦布告だ。

われわれは、だれが何を書こうと、言おうと、
寛容と歓待をもってそれを読むだろう(あるいは読まないだろう)。
「放射能について騒ぐことで、
人を傷つけたり、財産を損なっていいのか
というあなたがたの理屈が
欺瞞にみちたものであることはとりあえず措こう。
「科学」が国家とも経済とも原子力産業とも
ズブズブの一蓮托生であることを
あなたがたが迂闊にも知らなかったとしても、
それもとりあえず措いておこう。
ところで、なぜ「潰す」必要があるのですか?

最初、工作員だろうと思いました。
ところが、どうも、工作員とも思えないフシがある。
では、お金もらえるわけでもないのに、何をムキになっているのか。

はっきり言おう。なぜクズどもは邪魔をするのか。
内部被曝のエビデンスだかエビフライだか知らんが、
そんなことが問題なのではない。
かれらは、すべての一般人の知性、情動、コナトゥスが
爆発する蜂起的状況が許せないのだ。


なぜか? それを許したら、

みずからの優位(何の分野での、ではなく、一般の地平における)

と思っているものが地盤沈下をおこすから。


「蜂起するなら、俺に断ってからにしろ」
「蜂起するなら、俺が『立ってよし』と言ってからにしろ」
「その蜂起、待て! 俺をおいていくな!」
「俺を、とにかく、尊敬しろ!」

「被災地の人たちの心を傷つける」も、
「経済がダメになる」も、
すべて後付のクソ理屈。

きさまらのおつむは、
「主婦=放射性物質」と喩えて恥じない日本原子力研究開発機構なみ。

笑えない話だ。
問題は原発でもエネルギーでもない。
この世界にオッサン的エートスがあるかぎり、
クソみたいなことは終わらない。
フクシマ後の状況すべてが、
お前らみたいなクソオヤジへの三行半であることにまったく気づかない おめでたい下司ども。
邪魔です。ほんとうに邪魔です。お願いですからどっか行ってください。
これでも読んでおつむを解毒しやがれ。



2012年6月1日金曜日

人間の徳について

「内部被曝とはなにか。内部被曝などない」



サンディエゴでとれた10bq/kgの本マグロから、
岩手の1200bq/kgのシイタケまで、
全部だいじょうぶ!!! 放射能は体にいい!!!
カミさん、子、孫にも食わせよう!!!
…となるかといえば、そんなことはまったくなく、
自分たちはセコセコと
ベクれていないものを漁っているにちがいない。
石川迪夫がテレビで、分厚いデカい手をふりまわして
「わたしはばあさんとふたり、
ほうれん草を食べまくっていますぞ!!!」
と吼えていたけれども、最近どうした、見ないぞ。
大橋弘忠といっしょにふくいちに行って汚染水を飲んでこい。

不徳の核カルトども、首を洗って待ちやがれ

2012年5月28日月曜日

2012年5月22日火曜日

Striking Quebec Students



ケベック学生のストライキは三カ月つづいている。5月17日には議会によってこの反学費ストライキ鎮圧をはかる「78法案」が可決された。これは集会やデモの権利を制限するものであり、それらが公共施設内部および周辺50メートルでなされることを禁じている。この禁則をやぶった個人には1,000~35,000ドルの罰金、組織には25,000~125,000ドルの罰金が課される。そしてこの法案は、ストライキされてきた大学の8月末からの再開を定めている。ストライキが教育をうける権利を侵害している、というのである。これにたいして5月20日にはモントリオールで27回目の夜のデモがおこなわれた。300名の逮捕者を出したという。

先日早稲田でのシンポジウム(「大学はタダになるのか」)で白石嘉治氏が述べたように、われわれは不可能なる現実の名において大学ストライキを創出しなければならない。学生の債権化を実力で阻止するケベック学生のように、がれき焼却受け入れを実力で阻止する北九州市民のように。

現在、ストライキとは何を意味するのか。たしかなのは、工場=労働者=ストライキという従来のアレンジメントが過去のものとなり、社会工場=社会労働者=ストライキというあたらしいアレンジメントがそれに取って代わったということである。工場のパラダイムが生産だったとすれば、社会工場のパラダイムは流通である。労働者のパラダイムが男だったとすれば、社会労働者のパラダイムは女と学生と子供である。従来のストライキが生産の停止だったとすれば、現代のストライキは流通の切断である。従来のストライキが社会への動員だったとすれば、現代のストライキは社会動員の解除である。

社会工場のさまざまな流れ――生産の流れ、商品の流れ、金融の流れ、ヒトの流れ、情報の流れ、電力の流れ、ガスの流れ、放射能の流れ――を切断すること。これが現代のストライキの射程なのである。たとえば、学生が学生ローンをかえさないことは金融の流れをたちきるストライキである。被曝を拒否することは汚染食品の流れをたちきるストライキであり、放射能がれきを拒否することは被曝や放射能やがれきビジネスの流れをたちきるストライキである。脱動員研究所の『ストライキの概念の諸テーゼ』(2012年)をひこう。

ストライキは内的である。このテーゼは「デモは外的である」という別のテーゼに照し合せて理解される。外的行動というのは、内にたいする外の動員である。デモ参加者は県庁や省庁のまえで広場いっぱいに集結させられる。たとえデモが申請コースを逸脱し、組合の隊列からあふれだし、警備軍や非常線を突破することがあっても、デモは外的であるために無害である。デモは戸外にとどまる。それにたいして内的行動は、内の動員解除によって開始され、内と外の境界線を消失させるにいたる。 」

外のデモ――屋外、労働時間外――の隆盛の裏側で、すでに内のストライキは進行している。被曝を、放射能がれきを実力でストライキするように、学生は学生ローンをストライキする必要がある。われわれは外の時間を止めて、内の時間を生きる必要がある。

2012年5月15日火曜日

告知「大学はタダになるのか」

直近の5月19日に早稲田大学で大学無償化シンポジウムがある。友人や恋人や家族をさそって行くもよし、ひとりでぶらぶら行くもよし。無償の大学は21世紀の基本的地平である。だが、日本の大学の無償化という来たるべき出来事は地理政治学としても思考される。カダフィの沈没がサルコジの沈没を生産したように、日本で大学がタダになるという出来事は世界におけるもうひとつの出来事を生産するはずである。世界は、ウソにまみれた資本主義の因果律――「経済危機だから緊縮政策を」「ハナクソニックが赤字だから東京ホタルイカを」――ではなく、出来事の残酷な共鳴である。資本主義のツケは資本主義者へ、学生に愛とカネと蜂起を。

***

大学はタダになるのか
国連人権規約「大学無償化条項」批准を考える

去る3月17日、朝日新聞夕刊にて、外務大臣が国連人権規約「大学無償化条項」に批准するとの指示を出したことが報道されました。これまで、同規約への批准を留保していたのは、国連人権規約締結国160カ国中、2カ国(日本とマダガスカル)だけでした。国際的にみて、今回の批准指示は当然のことなのかもしれません。しかし、学費が高い日本の現状を考えると、一歩前進といえるでしょう。これをきっかけに、あらためて大学無償化について、そしてそもそも大学とはなにかについて一緒に考えてみましょう。

報告者:古屋寛生(ソラグラス代表、同志社大学)
栗原康&五井健太郎(ブラックリストの会in東京)
関翔一(ゆとり全共闘)
白石嘉治(上智大学)
日時:5月19日(土) 15:00~17:00
場所:早稲田大学本部キャンパス1号館101教室

主催:国連人権規約「大学無償化条項」批准を考える会
共催:アレゼール日本、ブラックリストの会in東京
連絡先:早稲田大学政経学部岡山茂研究室
Tel : 03-5286-9723
shigeru(at)waseda.jp












































追記
ケベック学生の春(「ケベックのカエデの春」とも呼ばれる)は反学費闘争である。その闘争のさなかに学生たちは、みずからに敵対する帝国の記号体制をみいだす。4月25日の夜のデモで読まれた詩("Speak Rich en Tabarnaque")によれば、その記号体制には名前がある。「スピーク・リッチ」という名前である。どこを向いてもおなじ「スピーク・リッチ」が聞こえてくる。「スピーク・リッチ」が学生を借金奴隷にする。われわれが死んでも、死体のうえで「スピーク・リッチ」は鳴りひびいているだろう。ひとが詩人になるのは、こうした敵対的な記号体制の発見と同時であるにちがいない。




2012年5月13日日曜日

学費払い戻し闘争へ



今年の3月、ケベック州の20万人の学生がストライキを敢行、夜の街を彷徨しはじめた。「ケベック学生の春」と呼ばれるこの出来事は、学費75パーセント値上げにたいする反乱であり、なにより大学無償化の闘争である。イギリス、チリ、ケベック州。大学無償化をめぐる問いは、世界の大学の上空を舞っている。そして日本。3月17日、外務省は、高等教育の段階的無償化を定める国際人権規約の条項について、30年にわたった留保を撤回する方針をかためた。大学は無償になり、闘争はあらたな段階へと突入するだろう。すなわち、ここ30年間に大学に支払われた全学費の払い戻しを要求する闘争である。

この30年間、資本主義下の大学のツケはすべて学生にまわされてきた。借金漬けにされた若い学生がどれだけ悲惨な目に合おうとも、大半の大学教職員は知らない顔をしてきた。学生が年を追うごとにルンプロ化していくありさまを見て、ある教師は学生の教養のなさをわらい、ある教師はそれを学生運動の不在のせいにしてかつての学生運動を勝手になつかしんだ。これらは、資本主義下の大学――大学とはコミュニズムである――のツケを学生というサバルタンに押しつけて、ツケ自体をなかったことにしようとする国家主義的キャンペーンの一環であった。この30年間の大学が教員による現実否認のプロセスの場であったとすれば、この30年間、ルンプロ学生はあくびをしながら教員による現実否認の相手をしなければならなかった。もう十分だ。資本主義は資本主義者へとおくり返し、大学は大学のコミュニズムへとおくり返さなければならない。「学生に賃金を」(矢部史郎)、コラボ教員に借金地獄を。だがさしあたり、われわれはここ30年間に大学に支払われた全学費の払い戻しを要求しよう。なにせ、これからの学生にはカネがいる。東日本を脱出しなければならない。病院に通わなければならない。ブラブラ(病)しなければならない。本を買わなければならないし、安全な食い物を買わなければならない。

2012年5月11日金曜日

「いのり星」をかみくだく

日本の子ども人口時計」によれば、「いまから1000年後には子どもがゼロになる」そうだ。 えっ、1000年ももつとおもってるの? これから5年、10年たつと、じょじょに、子どもにかぎらず 人間がばたばた秋の蠅みたいに死んでいくし、 自殺の政治学も刷新されるはずだし、 放射能うんこがちょっとはきれいになる200年後に、 そもそも「日本人」は生き残っているのか、というのが現実だろう。 短命をせおうものたちにとって、 「加齢経済学」は激怒の対象でしかない。 「黄金週間」に、隅田川で、 「いのり星」という愚劣なイベントがもよおされた。 東京都チンタロウが、またまた税金を勝手におこづかいにつかって、 ぜいぜい喘いでいるパナソニックを救済。 糞パナソニックと、どうせ電通だろうが広告代理店と、 「収益の一部は環境保全団体に」とあるので天下りのじじいたち、 など不徳の強欲者たちのみが潤うおいしいイベントである。 税金が投じられているばかりか、 腐れ電球を1個1000円で買わされる。アンビリバブル。 「ついでに、電球で精霊流し」というわけか。 川下でまちうけていたゾンビが、流れてきた10万個の「いのり星」を バリバリと音をたててかみくだいた。 資本主義教の機関紙日経新聞によれば、 「大手銀行が10年ぶりに法人税を収めはじめる」という。地獄に堕ちろ。 この状況全体にたいして、民衆は、 「東日本ゼネスト(原発内含む)+銀行強盗」 「都庁襲撃+スカイツリー倒壊」 などの叛乱パッケージを実施することになるだろう。

2012年5月7日月曜日

ゼロ代表、左翼ののろし


5月7日午前0時30分。オランドの到着とともに夜のバスチーユ広場が赤く煙った。勝利したのはオランド候補者でも社会主義党でもない、左翼という概念である、だれもがそう感じたはずだ。極右の得票率が18パーセントに達した、何かおかしくないか? 経済危機という運命を受け入れろという、でもそれって恫喝ではないか? いつ爆発するかもしれない原発をかかえたままでいるなんて、狂気の沙汰ではないか? サルコジやルペンは移民排斥をとなえる、でも外国人のいないフランスなんて息苦しくないか? そもそも、どこまでが外国人でどこからがフランス人なのか? 恐怖をばらまいているのはむしろサルコジやルペンではないか? 失業率は資本主義の産物でなければ何なのか? オランドの勝利はこうした「批判と臨床」(ドゥルーズ)の前景化であり、各人が「自分自身と世界にとっての医者」になった結果である。くりかえすが、これは左翼という概念それ自体の勝利である。

オランドに投票した有権者のうち、かれを本気で信じている者、社会主義党の政策に本気で希望をいだいている者などいない。オランドはサルコジやルペンといったポピュリストの正反対である。かつてのミッテランのごときカリスマ度もゼロのゼロ代表である。信任ゼロの統治のもとで、左翼という錯乱、おおいなる健康のくわだてが開始される。かくして左翼ののろしは上がった。

2012年5月6日日曜日

2012年5月2日水曜日

すべての負債をオキュパイせよ!



2012年4月25日をもってアメリカ合衆国における学生の借金の総額は1000000000000ドル(1トリリオン)を突破した。Occupy Student Debtは記念すべきこの日を「1t day」と命名し、ニューヨークシティのユニオン・スクエアで「借金祭debt jubilee」をくりひろげた。トータリティ・ストライキをかかげた昨日のメーデーでは「学生負債をオキュパイしよう!」の声が止むことはなかったという。動画は学生借金をめぐりdissentとJacobinによって他日開催された討議である。学生借金オキュパイは大学の無償化のみを唱えているのではない。それは借金のシステムそれ自体の占拠をめざす全=世界の希求である。

追記
われわれは汚染地帯の除染ではなく、永遠のオキュパイ=石棺をのぞむ。われわれは、われわれ自身の生存のプレカリティとともに、放射性物質の永遠を考えなければならない。「見つかった/なにが/永遠が/列島に拡散した/放射能汚染のことさ」。だから『フェルメールとスピノザ <永遠>の公式』の著者ジャン=クレ・マルタンによる「ドゥルーズ」をfrance cultureできこう。

2012年4月21日土曜日

反原子力のドラマ

フィリップ・ソレルスとエマニュエル・デコンブによる『ギィ・ドゥボール、奇妙な戦争』。マオイスト・ソレルスのことは知らない。でも映画は面白そうだ。ソレルス自身のサイトで見ることができる。


ランシエールの『解放された観客』(2008年)以降、「スペクタクル批判」批判という主張がしばしばなされたが、われわれはさらにそれを批判することが可能である。じっさい、ランシエールの「解放された観客」というヴィジョンでは、原子力帝国の統合されたスペクタクルにも、そこに内在する新自由主義にも対峙することができない。原子力帝国の因果律は陰謀論的であり、そのネオリベラルな諸装置は形而上学的である。原子力都市においては万人が観客であるが、それは解放などではない。われわれに新鮮な息吹を与えてくれるのは、ランシエールの「スペクタクル批判」批判ではなく、スペクタクル的内在平面を徹底するドゥボールでありブレヒトである。

両者に共通するのはリアリズム演劇である。それはランシエールの批判にもかかわらず、演劇(知のポリス的主体)と観客(ポリスから疎外された無知なる客体)という二元論からできているのではない。演劇が観客を組織化するというのではなく、真実が高次の次元をへずに自己ドラマ化されるというリアリズムである。ドゥボールがスペクタクル社会の興亡をえがくように、ブレヒトは資本主義社会のはじまりと終わりを上演する。ブレヒト演劇のモンタージュのひとつひとつが剽窃可能であるように、ドゥボールの前衛劇は都市住人のみぶりのあいだに感染していく。両者のリアリズムにおいては、デモやストライキといった「行動」にたいして劇作の「夢」があるのではなく、デモやストライキと同じ平面に演劇行為が置かれているのである。その演劇は「夢と行動が姉妹である世界」(ボードレール)なのだ。ブレヒトの言葉を銘記しよう。

すべてをみぶりに帰納する目は、モラルである。

原子力資本主義のスペクタクルが中断され、すべてがみぶりに帰納されるときに「真実」のドラマ化が開始される。ブレヒトがいうように、このドラマ化は、以下のようなエチカのプログラムを経由するだろう。すなわち、真実を語る勇気をもつこと。真実を認識する賢明さをもつこと。真実を武器として使いこなす技術をもつこと。真実を手渡すべきひとびとを見出す判断力をもつこと。真実を拡散する策略をもつこと。真実は正義であるが、それは拘束するのではなく、自由なる創発として発現する。古臭い真実はドグマであるが、新しい真実は自由にふるまうことができるのだ。こうしたリアリズム平面において、日常的ないかなるみぶりもデモやストライキやドラマへと自己組織化されうる。ひそかな叙事演劇はすでにメトロポリスで進行中である。悲劇のパトスを寸断する真実のみぶりが拡散し、来たるべきリベンジが到来するだろう。ブレヒトを、ドゥボールを読みなおそう。東電、野田、枝野、細野、藤村、仙石、社畜ども、真実をなめんなよ。

2012年4月19日木曜日

怒声



「怒れ」(ステファン・エッセル)とかどうでもいい。この怒声があるかぎり。細野なめんなよ。

2012年4月18日水曜日

Oh, show us the way to the next whisky-bar



 ALABAMA SONG (Bertolt Brecht)

1
Oh, show us the way to the next whisky-bar
Oh, don't ask why, oh, don't ask why
For we must find the next whisky-bar
For if we don't find the next whisky-bar
I tell you we must die ! I tell you we must die !
Oh ! Moon of Alabama
We now must say good-bye
We've lost our good old mamma
And must have whisky
Oh ! You know why.

2
Oh, show us the way to the next pretty girl
Oh, don't ask why, oh, don't ask why
For we must find the next pretty girl
For il we don't find the next pretty girl
I tell you we must die ! I tell you we must die !
Oh ! Moon of Alabama
We now must say good-bye
We've lost our good old mamma
And must have a girl
Oh ! You know why.

3
Oh, show us the way to the next little dollar
Oh, don't ask why, oh, don't ask why
For we must find the next little dollar
For il we don't find the next little dollar
I tell you we must die ! I tell you we must die !
Oh ! Moon of Alabama
We now must say good-bye
We've lost our good old mamma
And must have dollars
Oh ! You know why. 

2012年4月12日木曜日

2012年4月5日木曜日

77歳のおじいさんが

ギリシャ年金受給者が議会前で自殺、「ごみ箱あさりたくない」
[アテネ 4日 ロイター]

77歳のおじいさんが負債に堪忍袋の緒が切れ拳銃自殺したのだった私はそのようなどしょっぽねがなくじわじわ死んでいくけどじじいの死をきっかけに私はやりたいことをやらない態度はもうやめようと思った昨晩ある友人は、放射能のせいで「正しさ」が再領土化していると言ったじつに生命とひきかえに「道徳」と「正義」と「社会」が息を吹き返しているのだったそのようなことどもは、「金があれば逃げたい」と思ったり「逃げる? うるせーな、んなのめんどくせーんだよ!」(いましろたかし『原発幻魔大戦』)と思ったりと日によってごたごたする私の気持ちとは何のかかわりもない私はただ酒を飲みかわいい彼女を愛撫し落書き××撒き銀行強盗教会侵犯をやりたい。





2012年4月4日水曜日

神の原罪、神々の無償

『負債体制(Debtocracy/XPEOKPATIA)』という名のドキュメンタリー映画。監督はギリシャのAris ChatzistefanouとKaterina Kitidiである。2011年4月11日、6言語の字幕を付してネット配信された。同映画のサイトをつうじて製作者たちに寄付をすることができる。

負債体制は原子力都市においてその呪いを最大化する。負債はただわれわれの病気として受肉するだけではない。負債はわれわれの生死をこえて、呪われた未来を生産するだろう。3月12日、放射能の不可視のモナドは身体や大地や海洋に深々と負債を書き入れた。われわれは自身の病や短命のみならず、未来においても返済するよう刻印をおされたのである。われわれは、そのような未来をありのままに想像する勇気を持たなければならない。

だが、負債とは犠牲のロジックである。ギリシャの人々がたとえIMF=神に借金を完済したとしても、騙されたという感情が残るだけだろう。原子力都市の子孫が身におびるだろう病に、現在のわれわれの愚行=負債のしるしが読まれるとしても、債務台帳は神のみのよろこびである。むろん、放射性物質が身体と大地と海洋に注がれたこの期におよんで、裂け目を覆い隠すことは不可能である。あなた方は借金を踏み倒すべきであるが、放射能をなかったことには出来ない。だから、高線量、低線量被曝地帯を脱出できる者は今からでもただちに脱出せよ。金、職場、ローン、大学、家族といったクソのためにどうしても脱出できないというのであれば脱出するな。いかに悲惨な現在と未来であっても、運命の債務台帳は破綻し、犠牲のロジックは失効している。この21世紀に、神の幻想をとりはらえ。汚染された大地に読まれるのは神の原罪のしるしではなく、神々の無償なる内乱のしるしである。

2012年4月2日月曜日

文学の原子力都市

とりとめのない恐怖と残忍に思いをはせたのは、3.11よりも前に、矢部史郎著『原子力都市』を読んでからです。[…]矢部氏は、核時代の空間の”顔のなさ”をやわらかな筆致で、しかし哲学的に見つめています。[…]「「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である」という記述に特に目をひかれました。(辺見庸『瓦礫の中から言葉を』NHK出版新書)

先日身内の葬式でK市に行った。東葛を通る電車(ぞぞ~)が、えんえんとつづく水田と畑(ぞぞぞ~ 生産するな!!!)が、利根川の土手(うわーっっっ)が、何もかもが怖すぎて発狂しそうになる。スズメなど鳥もいないような気がする。辺見庸が引証する矢部史郎のいうとおり、全総が原子力都市を生み、千葉平野をとりとめなくしたことを痛感する。自存力が殺がれるのを感じる。平原のかなたには筑波山が霞んでいる。多少の核種はあの山並みでブロックされただろうが、こんなに平滑部分が広くては焼け石に水である。あのかなたから来やがった。東京で放射能埃に脅える日々が1年余にわたり、そろそろ不気味な「慣れ」に注意せねばならない時期、核種がおそろしく微細で軽く、どこへでも飛んでいけることをあらためて得心し、脅えを刷新する。こんなに平らでは降り注ぎ放題、巻き上がり放題じゃないか(まだ出てるし)。

マスクをしっぱなしで、帰るやただちに全身洗濯をしたけれども、そもそもそういうしがらみを一切拒絶できない自分が恥ずかしい。乳幼児を連れてきていた遠戚がいて、嫌々来たのかもしれないがそれにしてはマスクもしていない。くわえて焼き場に向かう車中では「お~いお茶 玄米茶」を子ども含め回し飲みしていたので、親が「気にしない派」であることが確認された。ほとんど面識がなかったが思わず「子ども連れてきちゃだめですよ」と非難すると、こちらが狂人のような扱いを受けた。

除染→帰村、復興、絆、食べて応援、フクシマをえんがちょ扱いしてはいけない、それくらいだいじょうぶでしょ…すべて愚かしいものいいは「社会」から発している。日本社会とは日本株式会社のことであり、会社なんぞなくなったって人間は生きていける。愛する者さえいれば。あるいは愛する者がいないとすれば、それもじつは「自分の問題」ではなく「社会」が障害となっていることを一度は疑ってみるべきである。

放射能とのたたかいを優先させ、文学はそのあとで? そういう話はそういう話をしたいひとびとに委ねる。生活と文学ないし表現の順序を云々する議論は(たとえそれが「どちらも必要」という話であっても)断じてうけいれない。『チェルノブイリの祈り』はすばらしい本であり、結果的に社会を破壊する文学となった。けれども、あのような「祈り」が厄災を経てうみだされ、文学となったという事態の経過に股間が裂けそうなほどの怒りをおぼえる。消防士の妻は語った、「どんなに愛していたかを話したかった」と。

なぜ愛することが悲嘆の祈りに変わってしまったのか? 愛の永遠を、彼が殺されることなしに彼女は語り、歌うことができたはずなのに。苦悩を言葉にする営みは文学のひとつの様態にすぎない。辺見もいうように、われわれフクシマ人はまだ「苦悩にみあう言葉」をみつけていないかもしれない。しかしいっぽうで、悪の華はすでに、3.11のずっと前から、裏路地のそこここで狂い咲いてきたし、それが「原子力都市」のしるしでもあった。文学は社会の臓腑を喰い破って未来となる。フクシマ後に「原子力都市の文学」が生まれつつあるのではない。「文学にもとづく原子力都市」がフクシマを含めたわれわれの世界なのである。

2012年3月28日水曜日

授業料はもうすぐタダになる

もうすぐタダになるんだね、それに、
いままで借りたのも返さなくていいんだね!!!

(朝日3/17より)
大学無償化 留保を撤回
外務省方針 国際人権規約の条項

外務省は、大学や高専など高等教育の段階的無償化を求めた国際人権規約の条項について、30年余り続けてきた留保を撤回する方針を固めた。文部科学省などと協議して手続きを進める。授業料の減額や返還不要の奨学金の導入など、条項に沿った施策に努めることを国際社会に示す意味合いがある。ただ、現状で具体策は示されていない。
規約は1966年に国連総会で採択。日本は79年に批准したが、「高等教育は、無償教育の漸進的な導入ですべての者に均等に機会が与えられるものとすること」などとする条項は留保。「国公立で無償化が進めば私立と格差が生じる」と説明してきた。留保は約160の締約国のうち日本とマダガスカルだけで、国連は2001年に撤回を日本政府に勧告していた。
撤回については、民主党に政権交代後の10年1月、当時の鳩山由紀夫首相が施政方針演説で目標に掲げた。その後、高校授業料の実質無償化、奨学金の対象の拡大や各大学の授業料減免措置など、学生を経済支援する取り組みが広がっているとして、外務省は「留保撤回の状況は整った」と判断。玄葉光一郎外相は、今年2月の衆院予算委で撤回を明言し、「状況を事務方から聞いて、そういうことであれば撤回しては、と判断して指示をした」と答弁した。

2012年3月1日木曜日

飢えている

ショートサーキットとロングサーキット。
「くたばる自由」と「生きのばす自由」(Theピーズ)。
それらを同時に触知させてくれる感覚に飢えている。
それらがあたりまえに同じものだと確信させてくれる感覚に飢えている。

2012年2月21日火曜日

3.31 Operation Global Blackout




わーいわーい ねっとがおちる
(YouTube上の声明がブロックのせい?で貼りつけできない)

2012年2月14日火曜日

(私は善人でなくてほんとうによかった。

(私は善人でなくてほんとうによかった。咲くことだけ、流れることだけに、そうとは知らずに専念し、ただひたすらおのれの道にしたがっている花々や川たちのような、自然的エゴイズムをもっていてほんとうによかった。これこそが世界における唯一の使命なのだ。これ、すなわち、明澄に存在すること、そして、考えることなくそうする術を知っていること。)
―――Alberto Caeiro, O Guardador de Rebanhos (1946), 訳:廣瀬純

過日、わたしたちの太陽廣瀬純の連続講座を聴いて感動した。上記は廣瀬氏が当日くばってくれた教科書の内容の一部である。昔、ポーチュガルという名の香水を嗅いで噎せたっけ。ポルトガルに生まれた詩人F.ペソア(Caeiroはペソアのうちに出現した別の詩人)のこの詩は、わたしたちに「短絡の技術」をおしえ、「百の澄んだ大洋」を展開し、そうしてわたしたちは「われわれの存在のなかに潜む焼けつくような思いがたったひとつの海と結びついて二度と消えなくなる」(J=C・マルタン/杉村昌昭訳『フェルメールとスピノザ』)。
1914年3月8日に突如「わたし」のうちに出現した詩人とおなじように、またそれが身体のうちにあらわれたペソアとおなじように、わたしはわたしの永遠を生きたい。


ユーリヤは、自分がその小橋をわたり、さらに小路を通って、どこまでもどこまでも歩いて行くところを想像した――あたりは静まり返り、ねむたげなクイナが鳴き、遠くでは焚火がまたたいているのだ。と、なぜか不意に、空の赤い辺りにたなびいている雲も、森も、野原も、遠い昔に何度も見たことがあるような気がしはじめた。彼女は孤独な自分を感じ、この小路をいつまでも歩きつづけて行きたくなった。夕焼けの燃えている辺りには、何か地上のものならぬ、不滅なものの影が秘められていた。
―――A.チェーホフ『三年』原卓也訳

私の身体は私のかけがえのない唯一の舳である。これだけが、私が超自然的な何かをあてにすることなく死を乗り越える観点を表現する。私の身体のなかの何が永遠への参入を指し示すのだろうか?… 「ものは外部の原因によってしか破壊されえない」(『エチカ』第三部定理四)。
―――前出『フェルメールとスピノザ』

2012年2月13日月曜日

2012年2月12日日曜日

2012年2月7日火曜日

むざんなむくろとなった無為な建屋を

むざんなむくろとなった無為な建屋を、
いくら棺で覆っても毒の塵は消えず、
なにかのはずみで(あるいはなにもなくとも)まきちらされる。
この最新の公害があらゆるものの一蓮托生の網からうみだされたことからみて、
よりよい建屋、よりよい圧力・格納容器、よりよい原子力、よりよいエネシフはもとより、
よりよいイシハラ、よりよいハシモト、
よりよい正力松太郎、よりよい読売巨人軍、
よりよいAERA、よりよい報道ステーション、よりよいNHK、よりよい電通、 よりよいTSUTAYA、
よりよい東大、よりよい日能研、よりよい四谷大塚、よりよいTOEIC、
よりよいみずほ、よりよい三菱東京UFJ、よりよい三井住友、よりよいゴールドマンサックス、
よりよい東電、よりよい日立、よりよい三菱、よりよい東芝、
よりよいDeNA、よりよいMS、よりよいアップル、
よりよいユニクロ、よりよいイオン、よりよいスタバ、 よりよいトヨタ、
よりよい日本、
よりよい資本主義……
がありえないことはもはやだれの目にも明らかである。
同様によりよい社会もありえないことを悟るのにためらう理由はなにもない。
社会とは叛乱を封じこめるための建屋であり、
材質や施工の強度をどれほど上げようとも、
ほころびるたびにいかなる修正をほどこそうとも、
目に見えない塵は巻きあがり、拡散するのだから。
滅亡のオーメンを放射しつづけるふくいちを筆頭に、
家賃、賃労働、監視カメラ、家電、マイカー、マイホーム、ランキング、議会、選挙……
われわれは社会という虚構の書き割りを任じる各種の装置にとりかこまれている。
あなたが社会を構成するひとりであり、
あなたの思いやおこないが社会に反映すると語りかけるものがあるなら、
それもみな装置である。
だが、装置は建屋の部品にすぎない。
みおろしたりおおいかぶさってくるものにたいする反撥と、
騒乱の歓喜への欲望は、
社会よりもはるかに前からわれわれのもっともしたしい感情であったし(泣き叫ぶこども!)、
社会という覆いをもって隠すことはできても消すことはできない(泣き叫ぶおとな!)。
歌い、踊り、落書き、わめき、吐き、暴れ、群れても、
そのたびに解釈の手綱をにぎられ、
おどされ、蹴られ、なだめすかされ、
社会という名の建屋にとじこめられてきた。
(いまやただ街路に立ちつくしているだけで反社会の嫌疑をかけられる!)
おなじことのくりかえしに倦み、
毒に噎せ、借財の恐怖においたてられ、生存の苦いスープをすすってきた。
しかしそれでも、騒乱の記憶はいちども消えなかったし、
恋人の頬は上気し、友のてのひらには汗がにじみ、
ギターの弦ははじけ、靴はすりきれ、
解釈は凶悪に世界を読みとり、
フクシマの以前も以後も不穏な塵はいたるところに舞っている。
今夜も爆発の毒を抱いて眠ろう、
われわれにおおいかぶさろうとするもの、
目に見えない紐と網でわれわれをくくろうとするものにあらがい、
騒乱の朝の光に身を射られて、
歓喜の歌をくちずさむまでの短い時間を。

2012年2月2日木曜日

再開 グラフィティ考



グラフィティライターを取材したドキュメンタリー番組をみた。ライターは語る。いつもの風景に自分が残したグラフィティが忽然とあらわれる翌朝のひととき、それが最高なのだと。われわれはこのエピソードから再開しよう。
近代の時空を切り裂いた1789年、1848年、1871年、1917年、1968年とはしるしの氾濫である。それらはさまざまな革命体制、さまざまなかたちの直接民主主義を生み出した。革命の現前は革命の号令がもたらすのではない。革命に先行するのはしるしの脱領土化であり、それがひとを蜂起へと浮上させるのである。
たとえばときおり、クジラの群れが浜辺に打ち上げられることがある。座礁クジラ、それは無力の隠喩のクリシェではない。しるしを書く=読む生き物どもの力能のアレゴリーである。ガイガーカウンターの数値から地震雲にいたるまで、壁であれ本であれ恋人の表情であれ、ひとはしるしの海をさまよう。水面へと潜行せよ、深海へと浮上せよとしるしはいう。

2012年1月26日木曜日

静かな学生

「フクシマ以降の大学」をめぐる日仏シンポジウムが2月24~25日(東京日仏会館)、27日(神戸大学大学院人文学研究科・文学部)に予定されている。プログラムは先の投稿にくわしい。発表者のひとりである岡山茂氏がこのシンポジウムによせたうつくしい文章を掲載しておく。学生は静かである。その静かさを信じよう。


***

フクシマ以降の大学

1 教育環境

「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」というけれども、教員も学生を川の流れように眺めながら年老いてゆく存在である。教員が教えたいと思っていることが学生の学びたいことであるとは限らない。しかし教える者と学ぶ者がそれぞれの知的冒険のなかで出会うことはないわけではない。そのような機会を数多くもたらす「教育環境」とはどのようなものか、それはどのような大学により濃密にあるといえるのかを、ここでは考えてみることにする。

19世紀フランスの詩人マラルメがみたオックスフォード大学やケンブリッジ大学には、研究と勉学のためのこの上ない環境が保たれていた。中世以来の美しいキャンパスを学生と教員が悠然と散歩するのを眺めながら、詩人はこのような大学を存続させているイギリスという国に驚いている。そこには大革命で大学を廃止したフランスとは違うたぐいの「社会的寛容」、あるいは「乱されることのない伝統的な土地」があると彼は思った。霧に包まれたロンドンや石炭の塵にまみれた地方都市に暮らす人々は、これら二つの花のような「思考のための都市」に生きる者たちの存在を、黙って許していたのである。

フラ ンスはそういう「寛容」の精神を大革命のときにかなぐり捨て、ヨーロッパの大地をもナポレオンの遠征によって踏み荒らしてしまった。プロイセンはナポレオンへの抵抗のなかでベルリン大学を創設し、近代国家としてのドイツの礎とするだろう。フランスは19世紀末に大学を復活させるが、両国はその後に第一次世界大戦の塹壕戦という、文字どおりの泥沼のなかで膨大な数の若者を死なせてしまうことになる。そこに欠けていたのはもしかしたら、中世の大学を保ち続けたイギリスの「社会的寛容」なのかもしれない。

しかしイギリスにおいてもそのような精神は、サッチャーによる改革のとき以来失われてしまったようにみえる。イギリスはいまやオックスブリッジも含めて、世界でもっとも厳しい「教員評価」が行なわれる国である。イギリスの古い伝統を引き継ぐアメリカのリベラルアーツ・カレッジにしても、その自由な教育環境は、アメリカの人々の寛容さというより、彼らへの見えない抑圧によってかろうじて保たれているにすぎない。ウォール街を占拠した群集は、アメリカでは1パーセントの富裕層が99パーセントの民衆を支配していると叫んでいる。そしてリベラルアーツ・カレッジはたいてい富裕層の子どものためのものなのである。いまや世界のいたるところで「怒れる者たち」の氾濫=反乱が起きている。その「怒り」は端的に、大学が「禁域」として一握りの人々にのみ許されてあることへの抗議なのである。

かつて日本には、大学がすべての者に開かれると思われた時代があった。戦後に全国の県に一つずつ国立大学が置かれ、旧帝大や私立大学まで含めてすべての大学が一元化されたときである。戦前において旧制高校から帝国大学へと進んだごく少数のエリートにのみ許されていた特権が、すべての学生にある程度まで許されるようになると人々はそのときに信じた。自分の子を「大学」に進学させるということが廃墟から立ち上がろうとする庶民の心の支えとなり、そのことが大学の急激な成長をもたらし、さらにそのことが日本の「奇蹟の復興」をも可能にした。しかし残念ながら、大学の大衆化がこのようにして進むなか、入試のシステムによって旧帝大系大学の支配的な地位はふたたび揺るぎないものとなり、私立大学の学費というバリアも少しずつ高くなってしまった。政府は大学を増やして学びたい学生すべてを受け入れるより、新幹線や高速道路や原発の建設を優先してしまった。

1991年の大学設置基準の大綱化と 2004年の国立大学法人化は、さらに「不寛容」な政策であったといえる。これらの改革は戦後に大衆が大学に対していだいた夢を、幻想として打ち砕くようなものでしかなかった。法人化によって大学は「自治」をえたが、「競争的環境」のなかでの不平等な競争は大学そのものを「勝ち組」と「負け組」に分けた。「教育環境」においてもとより恵まれていた東大をはじめとする旧帝大系の大学はその環境をさらによいものとし、その他の大学はむしろそれを劣化させた。校舎はきれいになったが教員が減らされて、第二外国語を学べないような大学や学部はいまやざらである。

それではどうして日本の若者は静かなのだろうか。彼らは怒っていないわけはない。原発事故による放射能にもっとも敏感であらねばならないのは彼らである。 また彼らは、日本の大学がだれにでも開かれ、なおかつその「教育環境」が申し分ないと思っているわけでもない。彼らはだまされないくらいには啓蒙されている。国が不寛容ならその国の民衆は啓蒙されていなければならない。福島原発事故でエリートや専門家への信頼が揺らぎ、そのために大学への信憑さえ薄らいでいるいま、日本の若者はそのことに気づいている。さもなければ大学は、ナチスの時代のドイツや戦前の日本のように、民衆の迷妄を煽るだけのエリートを輩出する機関となってしまっている。

ということは、彼らこそ「社会的寛容」を知るいまでは世界にも稀な「民衆」なのかもしれない。たしかに彼らは、「教育環境」をよくしようと思っても自分たちではどうにもならない、既存のシステムに組み込まれていくしかない、と諦めているのかもしれない。 しかしそういう彼らにも、かつての民衆の記憶はDNAとして刻み込まれている。大学とは、国家にとって有用な人材を育成するための場所ではない、個人がよりよい就職先を求めて競いあう場所でもない、それは知的に解放された者がさまよい、出会う場所である、ということを彼らは心の底で知っている。だからこそ彼らは静かなままでいられる。

彼らをこれ以上怒らせてはならないだろう。その「寛容」が世界を救うからである。そのためにはどうすればよいかを考えることが、「フクシマ以降の大学」を考えるということだ。

岡山茂

フクシマ以降の大学

GKB47(虚構新聞によればデビュー曲は「ポニーテールと練炭」「屋上からフライングゲット)の「B」はbasicのBだそうだ。どうせならBasic Income を宣言してほしいものだ。政府なぞがうんこなことはとうの昔にわかっているがこれもあの民間ブタ(ブタさんごめん)のまきちらす糞害だ、どっかへ消えてくれ。これだから社会はだめだというのだ。大学生は糞ではなく詩を撒く。もちろんうんこを撒いても、あるいはネオ卵投会を言挙げし千葉産の卵を気に食わないすべてのものに叩きつけてもよい。吉田健一がすでに気づいていたように(「ヨオロッパの文學での無頼」)、ヴィヨンは自分から自由も救いも奪った社会から放逐されたがゆえに自由と救いを得た。われわれも社会を捨て、書へと向かおう。

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(以下転載)
アレゼール日本からのお知らせ

今年創立20周年を迎えるフランスのアレゼール(高等教育と研究の現在を考える会)のメンバー、クリストフ・シャルル、シャルル・スリエ、フレデリック・ネイラが来日し、アレゼール日本とともに以下のイヴェントに参加します。ぜひご来聴ください(いずれも入場無料、事前連絡不要、通訳つき)。

1 フクシマ以降の大学 日仏大学人の対話の試み
日時:2012年02月24日(金)14:00-18:00
場所:日仏会館1階ホール(東京、恵比寿)
司会:隠岐さや香(広島大学)
発表: クリストフ・シャルル(パリ第1大学)、中村征樹(大阪大学)、フレデリック・ネイラ(リモージュ大学)、岡山茂(早稲田大学)、シャルル・スリエ(パリ第8大学)、白石嘉治(上智大学)

2 クリストフ・シャルル講演会 「モデルニテ」 ――ヨーロッパで生まれた新しい時間の表象
講演者:クリストフ・シャルル(パリ第1大学 歴史学)
日時:2012年02月25日(土)15:00-18:00
場所:日仏会館1階ホール

3 日仏大学改革の比較研究
日時:2012年02月27日(月)
場所:神戸大学大学院人文学研究科・文学部 A棟1階学生ホール
10:00‐12:30 「ヨーロッパ=アメリカの観点から見た1945年以降のフランス大学システムの変容」(講演:クリストフ・シャルル)
13:30‐18:00 日仏大学改革の比較研究
司会:藤本一勇(早稲田大学)、発表:シャルル・スリエ(パリ第8大学)、フレデリック・ネイラ(リモージュ大学)、上垣豊(龍谷大学)、大前敦巳(上越教育大学)、岡山茂(早稲田大学)、隠岐さや香(広島大学)、白鳥義彦(神戸大学)、中村征樹(大阪大学)

主催:科研費研究グループ「日本およびフランスの高等教育改革に関する学際的研究」(研究代表白鳥義彦)(1、3)、日仏歴史学会(2)
共催:日仏会館フランス事務所、公益財団法人日仏会館(1、2)
問い合わせ先:アレゼール日本事務局 tel:03-5286-9723

2012年1月24日火曜日

痰を吐くドゥルーズ

吐き出せ、あの喉にからむ痰を

2012年1月21日土曜日

原子力都市に学生が…

原子力体制を沈めるのは学生だろう。
現在、反原子力を形成しているのはおもに市民である。
だが、市民に反原子力を期待するには限界がある。
なぜなら、市民がすまう社会そのものが原子力権力に捕縛されているからである。

学生とは帰属なき帰属の名である。
そして、そのかぎりにおいて来たるべき生の形である。
学生は市民やWe are 99%とは異なる何かにならなければならない。
その反帰属のコナトゥスにおいてのみ、恋愛が、友情が、共謀が、出来事として到来するだろう。

市民が何を言おうが、学生は市民である義務も必要もない。
学生は反=市民であるべきであり、反=社会であるべきである。
その学生的否定性を原子力都市にたたきつけ、まざまざと君臨させることで、
むしろ、なさけない市民をそのあわれな社会的属性から解放してやらなければならない。

懸命に学生であれ。
2012年、原子力都市に学生が登場する。
反原子力のハリケーンになるのは学生たちである。