2008年5月26日月曜日

大学の夜 デリダみたいに

5月22日(木)、早稲田大学の生協でやっている夜の講座?に行ってきました。
ジャック・デリダの『条件なき大学』がテーマで、翻訳者の西山雄二さん、
マラルメ研究者でアレゼール(高等教育と研究の現在を考える会)日本事務局長の岡山茂さん、
日本の代表的なデリダ紹介者のひとりである藤本一勇さん、 の3人がお話されました。
西山さんの、ていねいかつ簡にして要を得たお話で、
この本が現代日本でどのような意味をもつのかがよくわかりましたし、
「大学の普遍性」がどこにあるのか、を考えさせられました。
岡山茂さんが、「デリダみたいに」原稿を読んで、「かのように」を連発されていたのが、すげーしあわせ感いっぱいでした。
藤本さんの、フランス留学中にじかにデリダの論文指導を受けたお話も非常に刺激的でした。
まさに「条件なき大学」の現前というかんじです。
西山雄二さんがブログで詳細な報告を書かれています。
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/from/blog/2008/05/report-the-night-of-university/

大学、だいすきだ!一生大学生でいたい!

2008年5月21日水曜日

右翼がうようよ

映画『靖国』をみた。
http://www.yasukuni-movie.com/
右翼がうようよ で気持ちがわるくなったが さいごまで観た。
声がでかい。ひとの話をきかない。すぐ恫喝する。「いまの若いもんは芯が無い」と怒鳴る。軍服を着ている。

「終戦60年」の2005年8月15日、神社の境内で、
中国人の青年と 日本人の学生らしき青年がそれぞれ単独で
「小泉の靖国参拝反対」にきていたのを、
右翼がつぎつぎに寄ってきていじめるところが記録されている。
そのとき ひとりのオヤジ右翼(60代くらい)が、野太い声で
「おまえ中国人だろ! とんでもないやつだ!」というフレーズを何万回もくりかえすのが、
いやなことをおもいださせて鬱々とした。

敵の研究に余念無し!

2008年5月20日火曜日

大学の高いビル

大学の高いビル
大学のエスカレーター
すっごい明るい
ビルなのに寄棟の屋根

2008年5月17日土曜日

大学生

大学生 CTYДEHT
АНТОН ПАВЛОВИЧ ЧЕХОВ/池田健太郎訳



 天気ははじめのうち上々で、穏やかだった。つぐみが鳴いていて、近くの沼では何の生物か、空びんを吹くような哀れっぽい音を立てていた。山しぎが一羽、さっと飛んだと思うと、それを目がけて発射の音が、春の空気をつんざいて、長く晴れやかにとどろいた。しかし、森のなかが暗くなってくると、折あしく冷たい刺すような風が東のほうから吹いて来て、あたりがしんと静まり返った。水溜りにはみるみる氷の針がはって、森のなかには居心地の悪い、淋しい、荒涼たる気配がただよいはじめた。冬の匂いがしてきた。
 寺男の息子で、宗教大学の学生であるイワン・ヴェリコポーリスキイは、山しぎ撃ちからの帰りみち、ずっと小道づたいに川ふちの草場を歩いていた。指がかじかみ、顔が風を受けて火照っていた。彼にはこの突然の寒さが万物の秩序と和合をぶち壊し、自然までが不気味になって、そのためにいつもより早く夕闇が濃くなったように思われた。あたりは荒涼として、何かいやに陰気くさかった。川のほとりにある後家の野菜畑に火が燃えているだけで、見渡すかぎり、四キロほど離れた村のあるあたりも、すべてが寒い夕闇のなかにすっぽりと沈んでいた。ふと学生は、さっき家を出る時、母が入口の間の床にはだしで坐ってサモワールの掃除をし、父が暖炉のうえに寝そべってしきりに咳込んでいたのを思い出した。折から受難金曜日で、家では何ひとつ煮焚きをしなかったので、ひどく空腹だった。そして今、寒さに身をちぢめながら学生は、同じような風がリューリクの時代にも、イワン雷帝の時代にも、ピョートル大帝の時代にも吹いて、そうした昔にも、今と同じ残忍な貧乏や飢えがあったに違いないと考えていた。同じような穴だらけの藁屋根や、無知や、憂鬱や、同じような荒涼たる周囲や、闇黒や、圧迫感や、――そうした一切の恐怖は過去にもあったし現在にもあり、未来にもあるだろう。そうしてもう千年たったところで、人生はよりよくはなるまい。こう思うと彼は家へ帰る気がしなくなった。
 後家の野菜畑と呼ばれるのは、母と娘のふたりの寡婦がそれを持っていたからである。焚火がぱちぱちとはぜながら、あたりの耕された地面を遠くまで照らしだして、あかあかと燃えていた。後家のワシリーサは、百姓の半外套を着た、背の高いぼってり太った老婆で、焚火のそばに立って、物思いに沈みながらじっと火を見つめていた。彼女の娘の、小柄でそばかすだらけの、まぬけな顔をしたルケーリヤは、地べたに坐って鍋と匙を洗っていた。たった今、夕食の終ったところらしかった。百姓たちの声が聞えていた。野菜畑の人夫たちが、川で馬に水を飲ませていたのである。
「冬に逆もどりしましたね。」焚火に近づいて、学生が言った。「今晩は!」
 ワシリーサはぎくっとしたが、すぐに神学生だと気づくと、愛想よくほほえんだ。
「まあすっかり見違えて」と彼女が言った。「お金持ちにおなりなさいよ。」
 しばらく話がはずんだ。むかしほうぼうの地主屋敷に、最初は保母として、のちには乳母として勤めたことのある苦労人のワシリーサは、上品な言葉づかいをし、その顔からはいつも物やわらかい、穏やかな微笑が消えなかった。一方、亭主に虐待された、見るからに田舎女らしい娘のルケーリヤは、学生を見ても眼をぱちぱちするだけで、黙りこくって、つんぼで唖のような、奇妙な顔をしていた。
「ちょうどこんなふうに、使徒ペテロも寒い夜に焚火にあたったのさ」と学生は、火のほうへ両手を伸ばしながら言った。「ということは、あの頃も寒かったわけです。ああ、それは何という恐ろしい夜だっただろう、おばさん! ひどく物悲しい、長い長い夜だった!」
 学生はあたりの暗闇を見まわして、ふとけいれんでも起したように頭をひと振りふると、こうたずねた。― ―
「たぶんおばさんは、福音書の十二使徒伝を聞いたことがあるでしょう?」
「ええ、聞きましたよ」とワシリーサが答えた。
「じゃ覚えているでしょう、最後の晩餐の時にペテロがイエスに向って、『われ、御身とともに、獄舎にまでも、死にまでも行かん』と言った。すると主が彼に答えて、『われ汝に告ぐ、ペテロよ、きょう、汝三たびわれを知らずと拒むまで、鶏、鳴くことなからん』と言う。晩餐がすんでから、イエスは庭で死ぬほど思い悩んで祈りをあげておられたが、可哀想なペテロは、心労のあまり疲れ切って、瞼が重くなって、何としても睡魔に打ち勝つことができない。とうとう彼は眠ってしまった。それから、おばさんも聞いた通り、ユダがその夜イエスに接吻して、主を迫害者に売り渡した。主は縛められて、祭司長のもとへ引かれて行って、鞭打たれた。疲労こんぱいして、憂いと不安に悩みほおけ、ぐっすり眠ることもできなかったペテロは、今にもこの地上に何か恐ろしいことが起りそうな予感におそわれながら、そのあとについて行った。……彼は心底から、我を忘れるほどイエスを愛していたが、その彼が今、主の鞭打たれるのを遠くから見たのだ。……」
 ルケーリヤは匙をおいて、じっと学生に視線を注いだ。
「人びとは祭司長のところへ来て」と彼は言葉をつづけた。「イエスを訊問しはじめた。そのうちに下男たちが、中庭の真中で焚火をしはじめた。寒かったので、暖まろうと思ったのだ。その連中と一緒にペテロも焚火のそばに立って、今の僕と同じように暖まっていた。すると、ひとりの女が彼に気づいてこう言った。――『この人もイエスと一緒にいたよ。』というのは、彼も訊問に連れて行くべきだというわけです。すると、焚火のまわりにいた下男たちが、うさん臭そうにペテロをじろじろ見たに違いない。なぜかと言うと、彼がどぎまぎして、『私はあの人を知らない』と言ったのだ。しばらくすると、また誰か、彼がイエスの弟子のひとりだと気づいて、こう言った。――『お前もあの一味だ。』しかしペテロはふたたび否定した。三度目に誰かがペテロに向って、『今日わたしが庭であの男と一緒にいたのを見かけたのはお前じゃなかったか?』と言った。ペテロは三たび否定した。と、とたんに鶏が鳴き出したので、ペテロは遠くからイエスを眺めて、晩餐の席で彼の言った言葉を思い出した。……思い出すと、はっと我に返って、彼は中庭から出て、身も世もあらず泣きだした。福音書にはこう書いてある。――『そこで外に出て、激しく泣けり』と。僕は今こう想像するのさ。――静かな静かな、暗い暗い庭があって、その静けさの中で低いすすり泣きの声がやっと聞える様子を……」
 学生はほっとため息をついて、考え込んだ。ワシリーサはあい変らず微笑を浮かべていたが、急にしゃくりあげたと思うと、大粒の涙がはらはらとその両頬を伝って流れ落ちた。彼女はその涙を恥かしがるように、焚火から袖で顔を隠した。一方、ルケーリヤは、じっと学生の顔を見つめながら、顔を赤らめた。その表情は、激しい痛みをこらえている人のように、重苦しく引きつっていた。
 百姓たちが川から引きあげて来た。馬に乗ったそのひとりがもう間近まで来ていて、焚火の明りが彼のうえでふるえていた。学生は寡婦たちにお休みを言って、先へ歩きだした。すると、ふたたび闇が彼を取り巻いて、手が凍えて来た。無情な風が吹いていた。ほんとうに冬が戻って来たようだった。明日が復活祭だとは思えないぐらいだった。
 学生はワシリーサのことを考えていた。ああして泣いたところを見ると、あの恐ろしい夜ペテロに起ったことに、何か思いあたることでもあるのか。……
 彼は振り返って見た。闇のなかに淋しげな火が静かにまたたいているだけで、そのそばにはもう人影ひとつ見えなかった。学生はふたたびこう思った。――ワシリーサがああして泣き、その娘がああしてどぎまぎしたとすると、彼がたったいま話した千九百年まえの出来事が、こんにちに――このふたりの女に、いや恐らくはこの荒れはてた村に、彼じしんに、すべての人びとに、何らかの関係があるのではないか。老婆がああして泣いたのは、彼が人を感動させる話術を心得ているからではなく、ペテロが彼女に身近なため、彼女がペテロの心に起ったことに、身も心も打たれたために違いない。
 ふいに喜びが学生の心に波うってきた。彼は息をつくために、わざわざ一分ほど足を止めた。過去は、――と彼は考えた――一つまた一つと流れ出すぶっつづきの事件の鎖によって、現在と結びついているのだ。そして彼は、たった今じぶんがこの鎖の両端を見たような気がした。――一方の端に触れたら、もう一方の端がびくりとふるえたような気がした。
 やがて渡舟で川を渡り、それから山へのぼって、自分の生まれた村や、寒ざむとした真紅の夕映えが細いひと条の帯となって輝いている西の空を眺めた時、彼はむかしあの庭や祭司長の中庭で人間の生活をみちびいた真実と美が、そのままとぎれずに今日までつづき、いつの世にも、人間の生活の、いや、この地上すべての最も重要なものを構成しているにちがいないと考えた。すると、若さや健康や力の感じと、――彼はようやく二十二歳になったばかりだった――幸福の、眼に見えぬ神秘的な幸福の、言い知れぬ甘い期待とが、だんだんと彼の心を捕え、この人生が魅惑的な、奇蹟的な、――崇高な意義に満ちあふれたものに思われてきた。

2008年5月10日土曜日

アオガミ キタ

アオガミ キタ。
同封されていた払込用紙には4,000,000という リアリティの無い、滑稽な金額が。
これコンビニで使えんのかよ!?

詳しくは今後、ここでがしがし書いていくつもりだが、
俺は奨学金を返すつもりは無い。借金背負わされてだいめいわくしている。
しかし さすがにそれが多数派意見だとは思っていない。
これを読んで、「ふざけんな」「居直りやがって」「借りたもん返すのあたりまえだろ」と腹を立てる人のほうが多いであろう。
あるブログには次のような「説教」が載っている。

> 滞納者諸君、貧乏しながらでも食を削ってもこつこつと返せよと思う。

> それが自分の誇りになるのだ。と、説教だ。

> 私は焼きが回っているのである。(「極東ブログ」)

御説でただしいのは「焼きが回って」るという自覚の箇所だけです。
「食を削っ」たら勉強も仕事もできません。
つうか 400万の借金背負って、「誇り」もへちまもないです。
「貧乏」どころじゃないです。下手したら死にます。

俺たちは大学で、 生きて愛して本を読んでやさしくなってむやみに勉強して豚を飼って世界に触れて、
街路に出て絵を描いたり歌をうたったり映画を観たりわあわあ喚いたり泣いたり詩を撒いたりスタバのガラスを割ったり落書きしたり「ヒルズ」で鍋やったり、
つまり 表現する。
そのためにカネを払わなきゃいけないなんて、ほんとうにただしいことなのか?
(もちろん、「払う」ことぜんぶ否定してるんじゃありません。オールタダでうまうま生きていこうとおもってるわけでもありません。

ちなみに(独)日本学生支援機構のサイトの「返還について」の項には
次のような脅し文句がでっかい字で書いてある。

先輩の返還したお金が、後輩の奨学金になります。
奨学金を借り終えた後は、必ず返還しなければなりません。

http://www.jasso.go.jp/henkan/index.html

学生支援機構が 大学に行きたいすべての人間の学費を全額払え!
でなきゃ市谷に放火するぞ!
(嘘。だって学生支援機構が燃えちゃったら困っちゃうから。
その詳細については後日稿を改める。)

だいたい 多くの人があたりまえのように感じてしまっているかもしれないが、
奨学金が「貸与」であることは ちっとも 全然 まったく自明のことではない。
土地や労働力が売買=交換の対象になっていることが自明でないのと同様に。