2009年12月15日火曜日

「ただ乗りストライキ論」

『現代思想』12月号「あとがき」より全文引用させてもらいます。栗原康さん「ただ乗りストライキ論」。
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最近、ストライキのことばかり考えている。もともと、ストライキの本質は当事者性と自己決定にあるとされてきた。ふだん経営者に命令されてばかりの労働者がみずから立ちあがり、経営者にそむいて自分の意思で行動する。おそらく、それが本質であることにまちがいないし、今後も変わることはないだろう。だがこのごろ、ストライキを委任するというのもありではないかと思いはじめている。1995年、フランスで大規模な公務員ストライキがおこった。このとき、すべての公共交通機関が二ヶ月もとまったのだが、ほとんどのひとがこのストライキを支持していた。理由は単純だ。このストライキが非正規労働者や失業者の思いを代弁していたからである。ふだん非正規労働者はその境遇からなかなかストライキをくめないし、失業者にいたってはそもそもストライキをうてない。だから、代わりに正規労働者がストライキをおこなって、かれらの権利主張をおこなおうとした。ストライキが激しくなればなるほど、ひとに迷惑をかければかけるほど支持されたのもなっとくである。ある社会運動家は、これを委任によるストライキとよんだ。要するに、正規労働者のストライキにただ乗りしてしまおうということだ。
わたしはいま大学非常勤講師をしている。非常勤はおどろくほど低賃金で、いつ雇い止めにされるかもわからない。だから、非常勤はだれもがストライキをうつだけの理由をもっている。とはいえ、資金面や組織力のことを考えると、非常勤の組合がストライキをおこなうのは本当に大変なことだ。だが、専任の教員にかんしては状況がまったく異なる。先月号で白石嘉治氏がふれていたように、今年、早稲田大学の教職員組合は異例の支持率でスト権を確立した。おそらく、かれらが本気をだせば大学ひとつとめるくらいわけないはずだ。しかし、いまのところストライキが実行に移される見込みはない。早稲田の教職員はだれも自分たちのことを支持しないと思っているのだろう。もちろん、いまのストライキ要求項目をみるかぎり首をかしげざるをえない。いまだに専任教員のベースアップしか要求されていないからだ。しかし、そこに「学費無償化」「非常勤の待遇改善」などがはいったらどうだろうか。フランスとおなじように、まわりは支持するのではないだろうか。これまで、学生、院生、非常勤は大学教授たちを下支えし、ただ乗りをさせてきた。授業料支払い、無償労働、使い捨て労働力というかたちで。そろそろ、こちらがただ乗りさせてもらっていいはずだ。委任によるストライキへ。ただ乗りがしたい。」
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2009年12月7日月曜日

ギリシア蜂起2009






警官の発砲によるアレクシス・グリゴロポロスの死からちょうど一年が経過した2009年12月6日のギリシア。全土で暴動がうずまき、数々の大学が占拠されている。逮捕者は現在までのところ全土で550人におよんでいるという。権力はメディアを利用しつつ「アテネ大学学長、病院に収容」などとデマを流し、事態の収束をはかろうとしている。
蜂起。歴史の流れを断ち切り、理性のながながとした鎖から身を引き剥がしてみずからを権力のまえで危険にさらす。「この生」がなにものにもかえがたいものとなる地点、「この生」が無限回にわたって肯定される地点。「わたしはもう従わない」。ギリシア蜂起において高々と鳴りひびいているもの、それは「この生」の永遠の肯定と、従属に対する永遠の否である。国旗は燃やすためにある。
以下はhttp://juralibertaire.over-blog.com/より。





















2009年12月4日金曜日

タルナック「なぜわれわれは裁判所の監視にしたがうことをやめるのか」

12月4日付『ルモンド』紙より。タルナック事件の「9+1名」の署名による「なぜわれわれは裁判所の監督に従うことをやめるのか」(Pourquoi nous cessons de respecter les contrôles judiciaires)。互いに会うことを禁じられているジュリアン・クーパたちがその禁止をやぶって再会し、執筆された文章である。報道によれば、これによって彼ら彼女らはふたたび収監されるおそれがある。「クリストフ」は文中にあるとおり10人目の容疑者として先月27日に起訴された人物である。やはりこのひとたちの動き方はいい。権力とガチに見えて、じつはななめに動いている。
http://www.lemonde.fr/opinions/article/2009/12/03/affaire-de-tarnac-pourquoi-nous-cessons-de-respecter-les-controles-judiciaires_1275570_3232.html

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「なぜわれわれは裁判所の監視にしたがうことをやめるのか」

11月27日のクリストフの逮捕は、国家が依然として急性錯乱状態にあることを示している。錯乱状態とは、ひとびとがひかえめに「タルナック事件」と呼ぶもののことだ。クリストフの起訴は、訴訟手続がみずからを救済するためだけに遂行され、ほかの者の容疑をそのまま維持するためだけに新たな一名を告訴したということを意味する。

「第一のサークル」として、クリストフは、われわれがみずからの弁護について話合う少数の集まりの一人だった。裁判所の監視は今後のことを考慮し、彼がわれわれに会うことを禁止しようとしてあまりに大きな誤りを犯した。それはまた、われわれの弁護活動を解体しようとする意図的措置でもある。法をめぐるあらゆる観念がこれほどまでにねじれてしまったこの段階において、われわれが裁判所のこうした監視や常軌を逸した訴訟手続に従うことをいったい誰が要求しうるというのか。何者もこの不条理に付き合う義務はない。司法がなにものにもましてくだらないということを確認するために、自分が司法をこえた高みにあると考える必要はない。そもそも、明らかな犯罪手段によって維持されている社会に裁判など存在しないし何者も裁くことはできない。

誰もが想像することのできるように、裁判所の監視下における自由とは一種の神秘主義的体験の謂いである。考えてみてほしい。あなたは会いたいひとに会うことができる、ただしあなたの愛するひとびとをのぞいて。あなたはどこに住んでもよい、ただし自分の家以外なら。電話で、知らないひとの前で、自由に話をすることができる、だがあなたが話す内容はつねに、あなた自身に反する言質として取り押さえられている。考えてほしい、あなたはしたいことをすることができる、ただし真に欲することをのぞいて。司法監視下の自由が自由に似ているというのなら、柄もなければ刃も取り払われたナイフのほうがよほどナイフに似ているというものだ。

あなたは三人の友人と大通りをぶらついているとしよう。それは、あなたを尾行する警官の筆にかかれば次のようになる。「4人のターゲットがどこそこの方向に移動」。数ヶ月におよぶ別離ののちに、あなたにとって大切なひとと再会する。それは司法のジャーゴンによれば「不正協議」となる。逆境のなかであなたがそれでも、あらゆる友情が前提としている忠実さを手放さないとすれば、それは当然のごとく「共謀罪」と呼ばれる。

警察とその司法は、目につくものすべてを歪める能力にかけて抜きん出ている。結局のところ警察と司法の企てとは、好ましいものであれ不快なものであれ、ありのままをたやすく理解することができる物事を化け物じみたものにしてしまうことであり、それ以外の何物でもないだろう。

既存のいかなる政治的組織にも属さないだけで「オトノム」と呼ばれるに十分であるならば、われわれはこの国で「オトノム」という多数派であると認めなければならない。組合幹部のことを労働者階級に対する明らかな裏切り者とみなすだけで「ウルトラ左翼」になるならば、現在、CGT(労働総同盟)の一般党員たちはウルトラ左翼の危険分子の総勢によって構成されていることになる。

われわれは脱走する。われわれはもう外出を記録しない。われわれは再会するつもりである、このテクストを作成するためにすでに再会したように。われわれはもう隠れたりしない。われわれは見限るのだ、裁判官フラノリと、彼があれこれのジャーナリストを前に撒き散らす幾百のとるに足らない風説、幾千ものみじめな恨み節を。対テロリスト実行部隊はわれわれをうるさく追い回し、アパートに「音声装置を設置」し、会話を盗聴した。ゴミ箱をあさり、刑務所での家族との接見記録をすべて書きとめた。そうすることで連中はわれわれを一種の私的戦争に引きずり込もうとしているのだが、われわれはそこから離脱する。

対テロリスト実行部隊がわれわれに魅了されることはあっても、われわれが連中に魅了されることはない――われわれの子供たちは多少のユーモアをまじえて連中を「歯ブラシ泥棒」と呼んでいる。なぜなら9mm拳銃を手にバタバタと登場するそのたびに、彼らは歯ブラシを残らずかっさらっていく。連中が崇めたてるあのDNA鑑定のためだ。彼らは自身の実存と信用のためにわれわれの存在を必要としているが、われわれはちがう。連中はあの手この手の監視や訴訟手続でもってわれわれをパラノイア的な小集団に仕立てあげねばならない。われわれとしては、大衆運動のなかに溶け込むことを切望している。多々あるものごとのなかでもとりわけこの大衆運動こそ、連中を溶解させてしまうだろう。

だがなによりもまずわれわれが離脱するのは、公共の敵という役割である。つまりそれはひとびとがわれわれに望む犠牲者の役割ということだ。われわれがその役割から下りるとすれば、それは闘争を再開できるようにするためである。「追い詰められた獲物のような気分に代えて、戦士の活力が必要である」。コミュニストのレジスタンス闘士ジョルジュ・ガングアンはわれわれと似たような状況においてこう言ったのだった。

社会機械のいたる場で、それは小さな音で炸裂する。ときとしてその音はあまりにかすかなので、それは自殺という形態を取ることになる。ここ数年の社会機械において、そうした炸裂をまぬかれることのできたいかなるセクターもない。農業、エネルギー、交通、学校、コミュニケーション、研究、大学、病院、精神医学。それぞれの炸裂音は残念なことになにももたらさない、さもなければ鬱や生の冷笑主義の剰余を生み出す――いずれにせよまったく同じことだ。

今日の大多数の者とともに、われわれは状況の逆説を深く悲しむ。一方で、われわれはこのままの状態で生きていくことができず、他方で、愚か者どもの寡頭体制にとらわれた世界を、破壊へと突き進ませることもできない。現在の荒廃よりも望ましいあらゆる展望が、この荒廃から逃れるための実行可能な方策が、見失われてしまっているからだ。好ましくも絶望したいくつかの魂を別とすれば、よりよい生の展望なしに誰も叛乱したりしない。

時代は豊かさを欠いてはいない、欠如しているのはむしろ息の長さである。われわれには時間が、持続が必要なのだ――つまり長期にわたる共謀である。鎮圧と呼ばれるものの主要な効果のひとつは、賃労働と同じく、われわれから時間を奪いとるということである。事実上の時間が奪われるということだけではない――刑務所で過ごした時間、そこにいる者たちを出すためにはどうすればいいか模索した時間。時間を奪われるということはなによりも、固有のリズムを押し付けられるということである。鎮圧に立ち向かう者たちの生存は、彼らの周囲のひとびとの生存ともども、直接的な出来事の数々によって恒久的に曇らされてしまう。すべてが生存を短い時間へと、アクチュアリテへと向かわせる。あらゆる持続は細分化される。裁判所の監視とはそうした性質のものであり、裁判所の監視はそうした効果をもたらすのである。万事はこのように進行する。

われわれになされたことの主要な目的とは、集団としてのわれわれを無力化してしまうことではなく、大多数を畏怖させることだった。とりわけ、現行世界について抱く悪しき考えをもはや取りつくろうことができなくなった多数者ということである。われわれは無力化されたのではない。それどころではない、われわれをこのように扱ったところで、われわれはなんら無力化されていない。

われわれが以前にもまして大きなものとなるだろう務めを再開しようとするとき、何者もこれ以上われわれを妨げることはできないはずだ。その務めとは、われわれ全員を見舞っている集団的な無力状態から身を引き剥がすことが可能となるための展望を練り上げることである。正確に言えば、それは政治的展望でもプログラムでもない。そうではなく、世界との別の関係、別の社会的関係へといたることのできる実行可能な方策を、技術的、物質的な可能性として練り上げる。こうした練り上げは現存する拘束から始まるのだ。つまりこの社会の実質的な構成、社会のインフラおよび社会の主観性から、ということである。

というのも、変動を妨げているもろもろの障害についての認識から出発してはじめて、地平線上の混雑を取り除くことができるからである。これは息の長い仕事である、そしてわれわれだけでは意味をなさない。これはひとつの招待である。

アリア、バンジャマン、ベルトラン、クリストフ、エルサ、ガブリエル、ジュリアン、マノン、マチウ、イルデュンヌ、「タルナック」事件公訴中の10名。