2010年9月18日土曜日

ネオ・プロパガンダ

いわゆる「ロマ問題」について。何はさておき社会学者リュック・ボルタンスキーの声に耳を傾けよう。
人種差別を公然とすすめるサルコジ政権に対して、すでにさまざまな批判の声が挙がっている。ただしサルコジ=ベルルスコーニ流の排外主義は、その批判すら媒介として伝播していくかのようだ。じっさい連中の狙いは、われわれの議論の内容をニセの内容に置き換えること、精神のスクリーンを占拠すること、われわれのアテンションを捕獲することであり、賛同のみならず批判もまた動員することである。
このネオ・プロパガンダを、われわれはいかに破壊すればよいのか?

以下、ネット新聞『メディアパルト』9月13日の記事より訳出。

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我々は「ロマ問題」を議論しない

2010年9月11日、パリ東部のモントルイユで「ロマ、その他に誰が?」と題した集会が開かれ、社会学者リュック・ボルタンスキーその他による介入がなされた。以下にその寄稿を掲載する。ここで明らかにされるのは「挑発の技法をそなえ、批判を挟み撃ちすることを狙いとする、新たな形態のプロパガンダ」である。


この夏、ロマの名のもとに分類され、社会的制裁の標的とされた人々に対して向けられたのは、政治的プロパガンダと警察行動とによる攻撃である。それは、アルジェリア戦争以後のここ50年のうちでもっともシニカルかつ下劣な行為である。じっさい、フランス領土の一定の人口に対して政府がおおやけに人種差別的措置を取るなどという前例を探そうとすれば、アルジェリア戦争の時代にまで遡らなければならない。
ある集団がスティグマ化され、スケープゴートとされるたびに大抵そうであるが、いわゆる「ロマ問題」を存在させるためには、ロマという名がじっさいは誰に付されるのかを明確にする必要はない。その名の輪郭は曖昧なままでありうるし、むしろそうでなければならない。排除や根絶といった実践を始動させ、それらをありふれた行為として定着させるために、その根拠や基準をめぐって拘泥することはほとんどない。じじつ、糾弾の対象となる人口の輪郭は、いつでも変更できるようにしておく方がいいし、さらにはその輪郭を少しずつ拡大できるようにしておく方が好都合だ。それゆえ、標的にされたと感じる者、ロマの名の背後に別の名が鳴り響いているのを聞き取る者は多い。まさしく権力者や大半のメディア空間は、その別の名によってこれらの者たちを指し示すのだ。別の名とは「サンパピエ(許可証を持たざる者)」、「アラブ人」、「移民出身者」、「問題の地区の住人」、「非行者」、「マージナル」であり、さらには「オトノーム勢力」のメンバーとみなされた者たちのことである。また、それゆえに、ロマへの攻撃はもうひとつの集団のスティグマ化を狙っている。それは「危険なマイノリティ」として示される集団のことであり、可能とあらば、その集団を不安に陥れ、メディアが「世論」と呼ぶものに弾圧拡大の準備をさせることが目論まれている。
抑圧強化への移行を表明するために何故、ロマを攻撃の対象にするという決定がなされたのだろうか? 理由はいくつか考えうるが、主に以下の二点が挙げられるだろう。ひとつは、そのマイノリティが古くからスティグマ化されてきた存在であり、かつて向けられていた憎しみや恐怖を容易に再活性化することが出来ると考えられたからだというものである。ところで、ロマの運命にみずから関わりがあるとア・プリオリに感じる者がいるとすれば、それは、実権を掌握する一味から「左翼知識人」として分類される別のマイノリティ、ますますひどくなる尊大な態度で軽蔑され、口汚くののしられるあのマイノリティ以外にありえるだろうか? というのも、ロマの運命それ自体は重要ではないからだ。ロマが格好の犠牲者になりえると思われたのは、ロマが(たとえばタックスシールドといったト ピックとは異なり)政治的闘争の真の賭け金になることは決してないからである。しかしながら、ロマ攻撃の根底にはさらに憂慮すべき別のロジックがはたらいている。冒涜のロジックである。政治的冒涜とは、通常であれば検閲によって言われざるものに留まる憎悪の言説を高らかに表明し、道徳的禁止をあからさまに踏みにじる行為である。これまでつねに極右のものであったこうした言説上の戦略が政権に採用されたのであり、それには二つの目的が存する。まず、憎悪の言説を正当化しつつ検閲を解除すること、ついで、その言説に憤慨する者たちに道徳的良心を呼び覚ますことである。ショックを与え、怒りを喚起し、抵抗に立ち上がらせる。そのうえで、無責任な「理想主義者」と、サイレントマジョリティのために発言し行動する責任感ある「勇気ある現実主義者」とを区別し、両者のあいだの境界線を鮮明にするのだ。
こうした操作における直接的な政治的目的は何かを把握するためには、例外的な明晰さを必要としない。(言うまでもなく)その目的とは、ヴルト=ベタンクール事件が与えた印象――きわめて滑稽であるだけにいっそう壊滅的な印象――を、メディアや議論の場、とりわけ人々の精神にのぼらないようにすること、できればその印象を消し去ることである。すなわち、この機会に我々のうちの誰もが、自らの慧眼の鋭さを確認できたというわけだ。ただし問題なのは、ここ数十年のあいだにプロパガンダの技術がはるかに洗練され、効力を高めたことである。これは、学校教育の水準の向上や、近年ではインターネットによる発話行為の解放をおそらくは理由とする現行社会の批判意識の高まりに、プロパガンダの技術を対応させるためである。クリスチャン・サロモンが著書『ストーリーテリング』ではっきりと示したように、政治的プロパガンダの新たな諸技術は企業マネジメントの規律から生み出され、企業モデルにますます順応するようになった国家がそれを輸入したのだ。
ごく手短に言って、旧来のプロパガンダは「大衆」に向けられており、それはあらゆる議論を妨害すること、言葉やテーマそれ自体を粉砕することに主眼が置かれていた。こうした旧来のプロパガンダはむろんいまだ消滅してはいない。ただし、新たな展望が出現したのであり、それは以下の原則にもとづいている。すなわち今日、あらゆる議論を妨害することはほとんど不可能であり、諸個人からなる社会を画一的なマスとして扱うこともきわめて困難である。ならば第一に重要なのは、議論を横領すること、議論の空間を飽和させることだ。目指されるのは、古くさい全体主義のごとく議論を排除することではない。議論の場が限られているのは確かなのだから、論じられるテーマを入れ換えるべきなのである。こうしたことはメディア空間において顕著であるが、各々が思索や議論にあてる時空間にも当てはまるのであり、より深層においては、我々の注意力(アテンション)それ自体についても当てはまる。リチャード・レイナムがその画期的な『エコノミックス・オブ・アテンション』で明らかにしているように、広告業者や通信企業幹部やスピン・ドクターたちは、情報社会においては我々の注意力こそ希少価値であることを知悉しており、経済的、政治的な利潤を蓄積するためには、希少価値たる注意力こそ捕獲すべきであることを理解している。このプロパガンダに満足するか、憤慨するかはさして重要ではない。なぜなら、我々の注意力がある特定の問いに占拠されることで、別の問いが犠牲にされ、隠蔽されるからである。さらには、前景化される問いが惹き起こす人的被害などささいなものだ――今日「ロマ問題」こそそうした問いであり、今後も同じような「問題」が提起されていくのだろう。それがどのような内容のものとなるかはあなた方の想像におまかせよう。
この新たなプロパガンダの形態は挑発の技法をそなえているが、同時に批判を挟み撃ちにすることを狙っている。批判が沈黙すれば、採用された措置に異議がないことの口実とされるし、批判を表明すれば、それは期せずして、メディア空間のうちに煙幕=問いが占める場を押し広げることに貢献してしまうのだ。この挟み撃ちの状態を解除するには、スペクタクル社会における政治闘争の諸条件をふまえた、新たな批判のかたちの創出が必要だろう。
発言を終えるにあたって、社会的制裁をこうむり、ヨーロッパの多くの国で差別され排斥されているロマたちに連帯の意を表明したい。今日この集会で発言される私以外の方々は、私よりも上手に、ロマという名と結びついた数々の肯定的側面――ロマの文化や音楽や詩について――を強調してくれるはずである。私としては、ロマが所有していないものを喚起することでロマへの共感を表したい。ロマたちは原子爆弾を所有していないし、警察もシークレットサービスも持たない。彼ら彼女らにはプロパガンダの出どころもない。国境に区切られた「ロマランド」など存在しないし、ロマとロマでない者のれっきとした境界もない。特定の宗教にもイデオロギーにも、事後的に再構築された栄光ある歴史にも、自分たちを同一化したりしない。ロマとは我々が目指すところのものであり、言うなれば、我々の未来である。

2010年9月14日火曜日

反学生負債

21世紀の闘争の中心は銀行ラッダイトである。

イヴ・シトンも言うように、人類の未来をうらなうのは人文学的な「解釈」である。それは人類の名において意味を問う行為であり、詩的自覚をもって世界を了解することだ。想起すべきは、2009年1月にグリッサンやシャモワゾーによって執筆された「高度必需品宣言」(『思想』2010年9月号)である。その「宣言」はゆたかな人文学的「解釈」をたたえている。たとえば、資本主義は最低限必要なものにわれわれの生を切り詰めるが、そもそも生とは、最高度に必要なものによって支えられるべきではないか? 最低限の生存など生存の名に値しないのではないか? 果たして、われわれの生を成り立たせる高度必需品にバーコードなど必要だろうか? はたまた完全雇用とは、万人にベーシックインカムを配布することではないか?

いうまでもなく、大学は人類にとっての高度必需品である。そこに必要最低限というものさしは通用しない。それゆえ大学は無償であるべきなのである。それに対し、企業や銀行は大学を必要最低限化しようとしており、その戦略は学費と負債である。ここでedu-factoryの呼びかけに耳をかたむけよう。大学は銀行ラッダイトの急先鋒となり、高度必需としての生をとりもどす場となるだろう。

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反負債行動の呼びかけ


われわれ学生、教員、移民労働者、プレカリアートは、負債廃止ネットワークにたいし、学生負債に反対する世界規模のアクション・デーを組織することを呼びかける。


われわれは大学の私有化、労働のプレカリゼーション、知識のあらたなエンクロージャーに反対し、コモンウェルスを奪還する運動に日々世界で取り組んでいる。


われわれは、これらの闘争すべてを構成する第一のものが借金であると了解するに至った。


負債とは社会的富を囲い込むための主な道具である。社会的富とは教育、知識、健康的食糧へのアクセス、住宅や医療のことだ。われわれが自身の生を生きるためには、そのほぼ全ての側面において、クレジットへのアクセスが必要不可欠である。


負債は根本的に政治的な問いである。というの負債とは、われわれの生と身体を管理する最たる方途だからである。管理は、個人レベルの恫喝として行われており、大規模な社会的搾取として全般化している。


30年以上にわたって、負債は個人、コミュニティ、国家、そして大陸を分断統治するためのマネジメント戦略として打ち出されてきた。


今日の金融資本主義において必然的なように、負債はパラサイトとして作用している。継続的な貸付と、それによる負債の深刻化がなければ、資本はこれ以上機能することができない。目下の経済危機がそうした原理の証左である。


したがって負債は、われわれの教育や生存を犠牲にして金融産業の利益を生み出す不公正なシステムなのである。


学生負債とは、この不公正なシステムが実行に移されるさいの最初の形態のひとつである。われわれは学生として教育にアクセスするために、借金を強いられるのだ。こうした略奪的な貸付戦略によって、未来の労働服役を担保とする契約を銀行や金融機関から押し付けられた何世代もの人々が発生している。

学生負債とは大学の法人化ないし金融化を意味する。それは知と情動のエンクロージャーであり、賃労働や生活のプレカリゼーションである。


それゆえ学生負債にたいする闘争は、クレジットカード、抵当、国際的な負債システムといった今日の奴隷制度にたいする闘争の一部をなすものである。われわれに固有の闘争であると同時に、より公正な世界を目指した共なる闘争なのだ。


われわれは、万人の破産への権利、万人のクレジットへのアクセスの権利を要求する。われわれは負債の即時撤廃を呼びかけ、負債システムにたいする市民的不服従を呼びかける

われわれは借金を返すつもりなどない!


http://www.edu-factory.org/edu15/index.php?option=com_content&view=article&id=356