2009年7月11日土曜日

We are all deadbeats

 イタリアで開催されたG8にたいする抗議行動はローマやラクイラのみならずイタリア全土で繰り広げられた。警官や機動隊カラビニエーリによる超法規的な横暴が振るわれ、逮捕者が続出するなか、それでも大学で、路上で、キャンプ地で活発な抗議行動が行われたのである。目下、その様子はyoutubeの以下のチャンネルに詳しい(http://www.youtube.com/G8life)。
 われわれは「負債学生」としてローマのデモに参加した。その負債は日本の大学、国家、企業、銀行がグルになってわれわれに背負わせたものである。学費が高ければ借りるほかない。そこで抵当に入れられるのはわれわれの(未来の)生存そのものである。そんなものは返さない。
 われわれが要求するのは、本物の負債である。たとえば恋愛関係とは、互いが互いに無限の負債をかかえこむことだ。ひとは恋人に身も心もあずけてしまうが、何も恐れたりしないし、「その代わりに」何かを要求したりもしない。恋人にたいして、友人にたいして、無限の負債をかかえこむ。無限に要求し、要求される。ここに何の問題があるだろう。
 こうした無限の負債関係こそ共産主義である。資本主義はその共産主義に寄生しつつ、ローンだの交換だのギブアンドテイクだのビジネスライクだのマーケティングだのマネージメントだのと言いつのって生産を掠め取ろうとする。だが、資本主義下の負債など知ったことではない。共産主義的負債の爆発、これがわれわれの愛である。われわれはそれをすでに知っている。(参考文献:デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』、以文社、2009)
 以下の写真は時間順(7月7日)。ビール瓶の写真の時点で一旦デモ終了、その後二百名ほどのブラックブロックがテルミニ駅を占拠した。















以下おまけ。


2009年7月5日日曜日

フルフェイス!


イタリアNo G8カウンターサミット・プログラム(Bellaciaoより)
4日 ヴィチェンツァ米軍基地Dal Molin反対デモ(15時半スタート)
5日夜-6日 ラクイラにて震災犠牲者のための追悼集会「記憶・真実・正義」(震災発生時刻の03時32分開始)
7日 ローマ、各国首脳到着に合わせての抗議デモ(17時バルベリー二広場集合)
7日 ラクイラのユニセフ公園にてフォーラム開催
8-9日 イタリア各地で抗議行動、デモ、サプライズ・アクション
10日 ラクイラ、大規模デモ(Paganica駅出発、震災地区を通って市の中心地へ)

2009年7月4日土曜日

ラクイラG8サミット

以下はColletivo Autorganizzato Universitario(=Self Organaized University Collective)の声明である(http://cau.noblogs.org/)。このC.A.Uはナポリの諸大学の学生を中心として2008年に結成された。なお、訳出にあたってフランスサイト「No G8 France」(http://nog8france.blogspot.com/)を参照した。

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「われわれ学生は不可能なことを望む」

 G8ジェノヴァ・サミットから8年が経った。われわれの中にはそこに立ち会った者もいるし、当時まだ幼かった者もいる。だがわれわれの誰一人として忘れはしない、もうひとつの可能な世界のため、自由と正義と平和のため、そして金儲けへの隷従を断ち切るために、世界中から30万人もの人びとが結集しデモを行ったことを。虐殺されたカルロ・ギリアーニのことを、滅多打ちにされた何百人ものデモ参加者のことを、Bolzaneto警察署内での拷問の数々を、(活動家の宿泊所として利用された)Diaz学校への襲撃、あの阿鼻叫喚を忘れない。警官たちのサディズム、権力によって思いのままに行使された報復措置を。仲間たちは執拗に追い回され、あげくの果てに不当にも罰せられてしまったのだ。



 8年という長い年月のあいだに多くの物事が変わってしまった。当時、われわれは国際政治をめぐる議論を資本の番人どもから奪い取ろうとしている最中だった。だが現在、国際政治はふたたびかつてと同じような指令を下し始めている。すなわち戦争、搾取、飢餓、地球の破壊、「テロとの戦い」である。アフガニスタン、イラク、パレスチナで血が流れ、ラテンアメリカ、アジア、アフリカ諸国、そして国内外の郊外でも流血がやむことはない。われわれを取り巻いているのは、世界中に偏在するそうした「南」なのだ。何百万もの人びとが、毎日理由もなく血を流している。そうして一握りの人間が富を肥やす。にもかかわらず、その他の人間の多くはそうした現状について何も知ろうとせず、無関心を決め込むばかりだ。

 われわれもまた変わった。ほんの少しだけ弱くなり、疑い深くなった。少しだけ怯えてもいるかもしれない。だがわれわれは、そのぶん分別を身につけたのであり、いまや、この闘争が多くの時間を必要とすることをわきまえている。かつて以上に、われわれの選択肢が、社会主義か野蛮かという以外にないことを確信してもいる。成熟したといえ、われわれはかつての自分たちを幼かったと否認したりしない。敵の顔も見えている、それはジェノヴァの敵と同じ顔だ。奴等が以前よりも凶暴になったことも承知の上だ。奴等は日を追うごとに危険な存在となり、その行動は常軌を逸している。

 2009年、G8サミットがふたたびイタリアで開かれる。ほかならぬ経済危機の最中にG8が戻ってくるのである。現在、西欧諸国は景気後退に見舞われ、失業率は増加しつづけている。もはや出口なしの状態だ。G8が回帰するのは、社会も文化も荒廃してしまったこの国、ヨーロッパ諸国のなかで人びとの所得がいちだんと低いこの国において、すなわち、政治システムが麻痺し、メディアが政治権力の管理下に置かれているこのイタリアにおいてである。この国では上流階級の人間たちによって仕掛けられた戦争が進行中である。それは貧乏人に対する戦争とも呼べるし、レイシズム、セクシズム、ホモフォビア、さらに社会の周辺に生きる人びとに対する侮蔑とも呼べるものだ。開催地として選ばれたのはアブルッツオ州である。この地では、資本主義をつらぬく金儲け・投機・腐敗のロジックの犠牲となり、多くの者たちが血を流さなければならなかった。そこでは3ヶ月前から、前代未聞の管理体制・軍事体制のための実験が繰り広げられている。

 政府は、われわれがそこに参入するのを防ぐためとあれば手段を選ばない。たとえば政府はサミットを複数の会合に分割した。学問で忙しい学生や仕事に追われる労働者、日々の糧をえることで精一杯の者たちにとって、そうした複数の会合をすべてフォローすることは困難である。また、自分の職を守るため、路上に出て闘わざるをえなくなっている者にとって、G8に抗議する余裕はないかもしれない。それでも、ここ最近のイタリアにおいて闘争は活発だったし、それはつねに存在していた。人びとはローマで生活保護の解体に抗議し、シラクサでは環境の荒廃に対する怒りの声が上がった。トリノでは大学への企業利益の流入を弾劾したのである。ローマではまた、真の相貌をあらわにしつつある「セキュリティー」に人びとは抗議した。「セキュリティー」とは移民排斥にほかならず、恐怖政治、社会運動の弾圧にほかならない。さらにLecceでの闘争。そこでは環境大臣の会合が開かれ、またしても銀行への資金援助が決定されたのであり、そうすることで、奴等はこれまで積み重なってきた失敗の数々を、奇跡のための新たな処方だと言いつのったのである。いずれにせよ時は来た。いまや、分断されてしまっていた運動をもう一度結集すべき時である。われわれ皆がふたたび出会い、ともに居合わせる時が来たのだ!奴等は震災のような悲劇を投機の対象とし、被災した人びとを選挙勝利のための道具とするばかりか、被災地復興を2033年までと引き伸ばしつつ、裏で汚い取引を行なっている。そんな奴等に切り札を握らせたままにしておくことなどできない。いずににせよ、破壊され、見放された人びとの頭上を行進すべく「大国」の歴々がこの地にやってくるのだ。奴等はカメラに向かって「何も恐れることはない」と言うだろう。だがわれわれは皆、現状がそうしたものではないことを十分に知っている。われわれは大きな声で現状を訴えなければならない。

 奴等が言うには、われわれはもはやそこに参入するだけの意欲を喪失してしまったとのことである。だが、われわれはいつでも、闘争し、苦悩している人びとの側についてきたし、そのための気概が欠けたことなどない。サミットの日々は熱気につつまれるだろう。そして10日、われわれはさまざまな国の人びととともに大規模なデモ行進をなし、われわれの言い分をかかげ、虐げられた人びと、闘争中の人びとの言い分を響かせるだろう。われわれを力で従わせることなどできない。奴等の浮かれた馬鹿騒ぎを台無しにしてやろう!

 われわれは大人になった。そして、未来はいまだわれわれのものであり、つねにそうであり続けるだろう!ラクイラで会おう。