2012年5月28日月曜日

2012年5月22日火曜日

Striking Quebec Students



ケベック学生のストライキは三カ月つづいている。5月17日には議会によってこの反学費ストライキ鎮圧をはかる「78法案」が可決された。これは集会やデモの権利を制限するものであり、それらが公共施設内部および周辺50メートルでなされることを禁じている。この禁則をやぶった個人には1,000~35,000ドルの罰金、組織には25,000~125,000ドルの罰金が課される。そしてこの法案は、ストライキされてきた大学の8月末からの再開を定めている。ストライキが教育をうける権利を侵害している、というのである。これにたいして5月20日にはモントリオールで27回目の夜のデモがおこなわれた。300名の逮捕者を出したという。

先日早稲田でのシンポジウム(「大学はタダになるのか」)で白石嘉治氏が述べたように、われわれは不可能なる現実の名において大学ストライキを創出しなければならない。学生の債権化を実力で阻止するケベック学生のように、がれき焼却受け入れを実力で阻止する北九州市民のように。

現在、ストライキとは何を意味するのか。たしかなのは、工場=労働者=ストライキという従来のアレンジメントが過去のものとなり、社会工場=社会労働者=ストライキというあたらしいアレンジメントがそれに取って代わったということである。工場のパラダイムが生産だったとすれば、社会工場のパラダイムは流通である。労働者のパラダイムが男だったとすれば、社会労働者のパラダイムは女と学生と子供である。従来のストライキが生産の停止だったとすれば、現代のストライキは流通の切断である。従来のストライキが社会への動員だったとすれば、現代のストライキは社会動員の解除である。

社会工場のさまざまな流れ――生産の流れ、商品の流れ、金融の流れ、ヒトの流れ、情報の流れ、電力の流れ、ガスの流れ、放射能の流れ――を切断すること。これが現代のストライキの射程なのである。たとえば、学生が学生ローンをかえさないことは金融の流れをたちきるストライキである。被曝を拒否することは汚染食品の流れをたちきるストライキであり、放射能がれきを拒否することは被曝や放射能やがれきビジネスの流れをたちきるストライキである。脱動員研究所の『ストライキの概念の諸テーゼ』(2012年)をひこう。

ストライキは内的である。このテーゼは「デモは外的である」という別のテーゼに照し合せて理解される。外的行動というのは、内にたいする外の動員である。デモ参加者は県庁や省庁のまえで広場いっぱいに集結させられる。たとえデモが申請コースを逸脱し、組合の隊列からあふれだし、警備軍や非常線を突破することがあっても、デモは外的であるために無害である。デモは戸外にとどまる。それにたいして内的行動は、内の動員解除によって開始され、内と外の境界線を消失させるにいたる。 」

外のデモ――屋外、労働時間外――の隆盛の裏側で、すでに内のストライキは進行している。被曝を、放射能がれきを実力でストライキするように、学生は学生ローンをストライキする必要がある。われわれは外の時間を止めて、内の時間を生きる必要がある。

2012年5月15日火曜日

告知「大学はタダになるのか」

直近の5月19日に早稲田大学で大学無償化シンポジウムがある。友人や恋人や家族をさそって行くもよし、ひとりでぶらぶら行くもよし。無償の大学は21世紀の基本的地平である。だが、日本の大学の無償化という来たるべき出来事は地理政治学としても思考される。カダフィの沈没がサルコジの沈没を生産したように、日本で大学がタダになるという出来事は世界におけるもうひとつの出来事を生産するはずである。世界は、ウソにまみれた資本主義の因果律――「経済危機だから緊縮政策を」「ハナクソニックが赤字だから東京ホタルイカを」――ではなく、出来事の残酷な共鳴である。資本主義のツケは資本主義者へ、学生に愛とカネと蜂起を。

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大学はタダになるのか
国連人権規約「大学無償化条項」批准を考える

去る3月17日、朝日新聞夕刊にて、外務大臣が国連人権規約「大学無償化条項」に批准するとの指示を出したことが報道されました。これまで、同規約への批准を留保していたのは、国連人権規約締結国160カ国中、2カ国(日本とマダガスカル)だけでした。国際的にみて、今回の批准指示は当然のことなのかもしれません。しかし、学費が高い日本の現状を考えると、一歩前進といえるでしょう。これをきっかけに、あらためて大学無償化について、そしてそもそも大学とはなにかについて一緒に考えてみましょう。

報告者:古屋寛生(ソラグラス代表、同志社大学)
栗原康&五井健太郎(ブラックリストの会in東京)
関翔一(ゆとり全共闘)
白石嘉治(上智大学)
日時:5月19日(土) 15:00~17:00
場所:早稲田大学本部キャンパス1号館101教室

主催:国連人権規約「大学無償化条項」批准を考える会
共催:アレゼール日本、ブラックリストの会in東京
連絡先:早稲田大学政経学部岡山茂研究室
Tel : 03-5286-9723
shigeru(at)waseda.jp












































追記
ケベック学生の春(「ケベックのカエデの春」とも呼ばれる)は反学費闘争である。その闘争のさなかに学生たちは、みずからに敵対する帝国の記号体制をみいだす。4月25日の夜のデモで読まれた詩("Speak Rich en Tabarnaque")によれば、その記号体制には名前がある。「スピーク・リッチ」という名前である。どこを向いてもおなじ「スピーク・リッチ」が聞こえてくる。「スピーク・リッチ」が学生を借金奴隷にする。われわれが死んでも、死体のうえで「スピーク・リッチ」は鳴りひびいているだろう。ひとが詩人になるのは、こうした敵対的な記号体制の発見と同時であるにちがいない。




2012年5月13日日曜日

学費払い戻し闘争へ



今年の3月、ケベック州の20万人の学生がストライキを敢行、夜の街を彷徨しはじめた。「ケベック学生の春」と呼ばれるこの出来事は、学費75パーセント値上げにたいする反乱であり、なにより大学無償化の闘争である。イギリス、チリ、ケベック州。大学無償化をめぐる問いは、世界の大学の上空を舞っている。そして日本。3月17日、外務省は、高等教育の段階的無償化を定める国際人権規約の条項について、30年にわたった留保を撤回する方針をかためた。大学は無償になり、闘争はあらたな段階へと突入するだろう。すなわち、ここ30年間に大学に支払われた全学費の払い戻しを要求する闘争である。

この30年間、資本主義下の大学のツケはすべて学生にまわされてきた。借金漬けにされた若い学生がどれだけ悲惨な目に合おうとも、大半の大学教職員は知らない顔をしてきた。学生が年を追うごとにルンプロ化していくありさまを見て、ある教師は学生の教養のなさをわらい、ある教師はそれを学生運動の不在のせいにしてかつての学生運動を勝手になつかしんだ。これらは、資本主義下の大学――大学とはコミュニズムである――のツケを学生というサバルタンに押しつけて、ツケ自体をなかったことにしようとする国家主義的キャンペーンの一環であった。この30年間の大学が教員による現実否認のプロセスの場であったとすれば、この30年間、ルンプロ学生はあくびをしながら教員による現実否認の相手をしなければならなかった。もう十分だ。資本主義は資本主義者へとおくり返し、大学は大学のコミュニズムへとおくり返さなければならない。「学生に賃金を」(矢部史郎)、コラボ教員に借金地獄を。だがさしあたり、われわれはここ30年間に大学に支払われた全学費の払い戻しを要求しよう。なにせ、これからの学生にはカネがいる。東日本を脱出しなければならない。病院に通わなければならない。ブラブラ(病)しなければならない。本を買わなければならないし、安全な食い物を買わなければならない。

2012年5月11日金曜日

「いのり星」をかみくだく

日本の子ども人口時計」によれば、「いまから1000年後には子どもがゼロになる」そうだ。 えっ、1000年ももつとおもってるの? これから5年、10年たつと、じょじょに、子どもにかぎらず 人間がばたばた秋の蠅みたいに死んでいくし、 自殺の政治学も刷新されるはずだし、 放射能うんこがちょっとはきれいになる200年後に、 そもそも「日本人」は生き残っているのか、というのが現実だろう。 短命をせおうものたちにとって、 「加齢経済学」は激怒の対象でしかない。 「黄金週間」に、隅田川で、 「いのり星」という愚劣なイベントがもよおされた。 東京都チンタロウが、またまた税金を勝手におこづかいにつかって、 ぜいぜい喘いでいるパナソニックを救済。 糞パナソニックと、どうせ電通だろうが広告代理店と、 「収益の一部は環境保全団体に」とあるので天下りのじじいたち、 など不徳の強欲者たちのみが潤うおいしいイベントである。 税金が投じられているばかりか、 腐れ電球を1個1000円で買わされる。アンビリバブル。 「ついでに、電球で精霊流し」というわけか。 川下でまちうけていたゾンビが、流れてきた10万個の「いのり星」を バリバリと音をたててかみくだいた。 資本主義教の機関紙日経新聞によれば、 「大手銀行が10年ぶりに法人税を収めはじめる」という。地獄に堕ちろ。 この状況全体にたいして、民衆は、 「東日本ゼネスト(原発内含む)+銀行強盗」 「都庁襲撃+スカイツリー倒壊」 などの叛乱パッケージを実施することになるだろう。

2012年5月7日月曜日

ゼロ代表、左翼ののろし


5月7日午前0時30分。オランドの到着とともに夜のバスチーユ広場が赤く煙った。勝利したのはオランド候補者でも社会主義党でもない、左翼という概念である、だれもがそう感じたはずだ。極右の得票率が18パーセントに達した、何かおかしくないか? 経済危機という運命を受け入れろという、でもそれって恫喝ではないか? いつ爆発するかもしれない原発をかかえたままでいるなんて、狂気の沙汰ではないか? サルコジやルペンは移民排斥をとなえる、でも外国人のいないフランスなんて息苦しくないか? そもそも、どこまでが外国人でどこからがフランス人なのか? 恐怖をばらまいているのはむしろサルコジやルペンではないか? 失業率は資本主義の産物でなければ何なのか? オランドの勝利はこうした「批判と臨床」(ドゥルーズ)の前景化であり、各人が「自分自身と世界にとっての医者」になった結果である。くりかえすが、これは左翼という概念それ自体の勝利である。

オランドに投票した有権者のうち、かれを本気で信じている者、社会主義党の政策に本気で希望をいだいている者などいない。オランドはサルコジやルペンといったポピュリストの正反対である。かつてのミッテランのごときカリスマ度もゼロのゼロ代表である。信任ゼロの統治のもとで、左翼という錯乱、おおいなる健康のくわだてが開始される。かくして左翼ののろしは上がった。

2012年5月6日日曜日

2012年5月2日水曜日

すべての負債をオキュパイせよ!



2012年4月25日をもってアメリカ合衆国における学生の借金の総額は1000000000000ドル(1トリリオン)を突破した。Occupy Student Debtは記念すべきこの日を「1t day」と命名し、ニューヨークシティのユニオン・スクエアで「借金祭debt jubilee」をくりひろげた。トータリティ・ストライキをかかげた昨日のメーデーでは「学生負債をオキュパイしよう!」の声が止むことはなかったという。動画は学生借金をめぐりdissentとJacobinによって他日開催された討議である。学生借金オキュパイは大学の無償化のみを唱えているのではない。それは借金のシステムそれ自体の占拠をめざす全=世界の希求である。

追記
われわれは汚染地帯の除染ではなく、永遠のオキュパイ=石棺をのぞむ。われわれは、われわれ自身の生存のプレカリティとともに、放射性物質の永遠を考えなければならない。「見つかった/なにが/永遠が/列島に拡散した/放射能汚染のことさ」。だから『フェルメールとスピノザ <永遠>の公式』の著者ジャン=クレ・マルタンによる「ドゥルーズ」をfrance cultureできこう。