2012年1月26日木曜日

静かな学生

「フクシマ以降の大学」をめぐる日仏シンポジウムが2月24~25日(東京日仏会館)、27日(神戸大学大学院人文学研究科・文学部)に予定されている。プログラムは先の投稿にくわしい。発表者のひとりである岡山茂氏がこのシンポジウムによせたうつくしい文章を掲載しておく。学生は静かである。その静かさを信じよう。


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フクシマ以降の大学

1 教育環境

「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」というけれども、教員も学生を川の流れように眺めながら年老いてゆく存在である。教員が教えたいと思っていることが学生の学びたいことであるとは限らない。しかし教える者と学ぶ者がそれぞれの知的冒険のなかで出会うことはないわけではない。そのような機会を数多くもたらす「教育環境」とはどのようなものか、それはどのような大学により濃密にあるといえるのかを、ここでは考えてみることにする。

19世紀フランスの詩人マラルメがみたオックスフォード大学やケンブリッジ大学には、研究と勉学のためのこの上ない環境が保たれていた。中世以来の美しいキャンパスを学生と教員が悠然と散歩するのを眺めながら、詩人はこのような大学を存続させているイギリスという国に驚いている。そこには大革命で大学を廃止したフランスとは違うたぐいの「社会的寛容」、あるいは「乱されることのない伝統的な土地」があると彼は思った。霧に包まれたロンドンや石炭の塵にまみれた地方都市に暮らす人々は、これら二つの花のような「思考のための都市」に生きる者たちの存在を、黙って許していたのである。

フラ ンスはそういう「寛容」の精神を大革命のときにかなぐり捨て、ヨーロッパの大地をもナポレオンの遠征によって踏み荒らしてしまった。プロイセンはナポレオンへの抵抗のなかでベルリン大学を創設し、近代国家としてのドイツの礎とするだろう。フランスは19世紀末に大学を復活させるが、両国はその後に第一次世界大戦の塹壕戦という、文字どおりの泥沼のなかで膨大な数の若者を死なせてしまうことになる。そこに欠けていたのはもしかしたら、中世の大学を保ち続けたイギリスの「社会的寛容」なのかもしれない。

しかしイギリスにおいてもそのような精神は、サッチャーによる改革のとき以来失われてしまったようにみえる。イギリスはいまやオックスブリッジも含めて、世界でもっとも厳しい「教員評価」が行なわれる国である。イギリスの古い伝統を引き継ぐアメリカのリベラルアーツ・カレッジにしても、その自由な教育環境は、アメリカの人々の寛容さというより、彼らへの見えない抑圧によってかろうじて保たれているにすぎない。ウォール街を占拠した群集は、アメリカでは1パーセントの富裕層が99パーセントの民衆を支配していると叫んでいる。そしてリベラルアーツ・カレッジはたいてい富裕層の子どものためのものなのである。いまや世界のいたるところで「怒れる者たち」の氾濫=反乱が起きている。その「怒り」は端的に、大学が「禁域」として一握りの人々にのみ許されてあることへの抗議なのである。

かつて日本には、大学がすべての者に開かれると思われた時代があった。戦後に全国の県に一つずつ国立大学が置かれ、旧帝大や私立大学まで含めてすべての大学が一元化されたときである。戦前において旧制高校から帝国大学へと進んだごく少数のエリートにのみ許されていた特権が、すべての学生にある程度まで許されるようになると人々はそのときに信じた。自分の子を「大学」に進学させるということが廃墟から立ち上がろうとする庶民の心の支えとなり、そのことが大学の急激な成長をもたらし、さらにそのことが日本の「奇蹟の復興」をも可能にした。しかし残念ながら、大学の大衆化がこのようにして進むなか、入試のシステムによって旧帝大系大学の支配的な地位はふたたび揺るぎないものとなり、私立大学の学費というバリアも少しずつ高くなってしまった。政府は大学を増やして学びたい学生すべてを受け入れるより、新幹線や高速道路や原発の建設を優先してしまった。

1991年の大学設置基準の大綱化と 2004年の国立大学法人化は、さらに「不寛容」な政策であったといえる。これらの改革は戦後に大衆が大学に対していだいた夢を、幻想として打ち砕くようなものでしかなかった。法人化によって大学は「自治」をえたが、「競争的環境」のなかでの不平等な競争は大学そのものを「勝ち組」と「負け組」に分けた。「教育環境」においてもとより恵まれていた東大をはじめとする旧帝大系の大学はその環境をさらによいものとし、その他の大学はむしろそれを劣化させた。校舎はきれいになったが教員が減らされて、第二外国語を学べないような大学や学部はいまやざらである。

それではどうして日本の若者は静かなのだろうか。彼らは怒っていないわけはない。原発事故による放射能にもっとも敏感であらねばならないのは彼らである。 また彼らは、日本の大学がだれにでも開かれ、なおかつその「教育環境」が申し分ないと思っているわけでもない。彼らはだまされないくらいには啓蒙されている。国が不寛容ならその国の民衆は啓蒙されていなければならない。福島原発事故でエリートや専門家への信頼が揺らぎ、そのために大学への信憑さえ薄らいでいるいま、日本の若者はそのことに気づいている。さもなければ大学は、ナチスの時代のドイツや戦前の日本のように、民衆の迷妄を煽るだけのエリートを輩出する機関となってしまっている。

ということは、彼らこそ「社会的寛容」を知るいまでは世界にも稀な「民衆」なのかもしれない。たしかに彼らは、「教育環境」をよくしようと思っても自分たちではどうにもならない、既存のシステムに組み込まれていくしかない、と諦めているのかもしれない。 しかしそういう彼らにも、かつての民衆の記憶はDNAとして刻み込まれている。大学とは、国家にとって有用な人材を育成するための場所ではない、個人がよりよい就職先を求めて競いあう場所でもない、それは知的に解放された者がさまよい、出会う場所である、ということを彼らは心の底で知っている。だからこそ彼らは静かなままでいられる。

彼らをこれ以上怒らせてはならないだろう。その「寛容」が世界を救うからである。そのためにはどうすればよいかを考えることが、「フクシマ以降の大学」を考えるということだ。

岡山茂

フクシマ以降の大学

GKB47(虚構新聞によればデビュー曲は「ポニーテールと練炭」「屋上からフライングゲット)の「B」はbasicのBだそうだ。どうせならBasic Income を宣言してほしいものだ。政府なぞがうんこなことはとうの昔にわかっているがこれもあの民間ブタ(ブタさんごめん)のまきちらす糞害だ、どっかへ消えてくれ。これだから社会はだめだというのだ。大学生は糞ではなく詩を撒く。もちろんうんこを撒いても、あるいはネオ卵投会を言挙げし千葉産の卵を気に食わないすべてのものに叩きつけてもよい。吉田健一がすでに気づいていたように(「ヨオロッパの文學での無頼」)、ヴィヨンは自分から自由も救いも奪った社会から放逐されたがゆえに自由と救いを得た。われわれも社会を捨て、書へと向かおう。

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(以下転載)
アレゼール日本からのお知らせ

今年創立20周年を迎えるフランスのアレゼール(高等教育と研究の現在を考える会)のメンバー、クリストフ・シャルル、シャルル・スリエ、フレデリック・ネイラが来日し、アレゼール日本とともに以下のイヴェントに参加します。ぜひご来聴ください(いずれも入場無料、事前連絡不要、通訳つき)。

1 フクシマ以降の大学 日仏大学人の対話の試み
日時:2012年02月24日(金)14:00-18:00
場所:日仏会館1階ホール(東京、恵比寿)
司会:隠岐さや香(広島大学)
発表: クリストフ・シャルル(パリ第1大学)、中村征樹(大阪大学)、フレデリック・ネイラ(リモージュ大学)、岡山茂(早稲田大学)、シャルル・スリエ(パリ第8大学)、白石嘉治(上智大学)

2 クリストフ・シャルル講演会 「モデルニテ」 ――ヨーロッパで生まれた新しい時間の表象
講演者:クリストフ・シャルル(パリ第1大学 歴史学)
日時:2012年02月25日(土)15:00-18:00
場所:日仏会館1階ホール

3 日仏大学改革の比較研究
日時:2012年02月27日(月)
場所:神戸大学大学院人文学研究科・文学部 A棟1階学生ホール
10:00‐12:30 「ヨーロッパ=アメリカの観点から見た1945年以降のフランス大学システムの変容」(講演:クリストフ・シャルル)
13:30‐18:00 日仏大学改革の比較研究
司会:藤本一勇(早稲田大学)、発表:シャルル・スリエ(パリ第8大学)、フレデリック・ネイラ(リモージュ大学)、上垣豊(龍谷大学)、大前敦巳(上越教育大学)、岡山茂(早稲田大学)、隠岐さや香(広島大学)、白鳥義彦(神戸大学)、中村征樹(大阪大学)

主催:科研費研究グループ「日本およびフランスの高等教育改革に関する学際的研究」(研究代表白鳥義彦)(1、3)、日仏歴史学会(2)
共催:日仏会館フランス事務所、公益財団法人日仏会館(1、2)
問い合わせ先:アレゼール日本事務局 tel:03-5286-9723

2012年1月24日火曜日

痰を吐くドゥルーズ

吐き出せ、あの喉にからむ痰を

2012年1月21日土曜日

原子力都市に学生が…

原子力体制を沈めるのは学生だろう。
現在、反原子力を形成しているのはおもに市民である。
だが、市民に反原子力を期待するには限界がある。
なぜなら、市民がすまう社会そのものが原子力権力に捕縛されているからである。

学生とは帰属なき帰属の名である。
そして、そのかぎりにおいて来たるべき生の形である。
学生は市民やWe are 99%とは異なる何かにならなければならない。
その反帰属のコナトゥスにおいてのみ、恋愛が、友情が、共謀が、出来事として到来するだろう。

市民が何を言おうが、学生は市民である義務も必要もない。
学生は反=市民であるべきであり、反=社会であるべきである。
その学生的否定性を原子力都市にたたきつけ、まざまざと君臨させることで、
むしろ、なさけない市民をそのあわれな社会的属性から解放してやらなければならない。

懸命に学生であれ。
2012年、原子力都市に学生が登場する。
反原子力のハリケーンになるのは学生たちである。