2009年11月30日月曜日

「この世界を破壊することは可能だ」

11月28日ジュネーヴ、反World Trade Organization。もうひとつの世界は可能だ、ならばこの世界は打倒できなければならない。「この世界を破壊することは可能だ」「資本に死を」「いつも反乱を」。












現場はジュネーヴだけではない。ジョルジョ・アガンベンは言う。現在のフランスのサルコジ体制は、イタリアのかつてのファシズム体制よりもファシスト的だ。これは事実である、哲学者はそう念を押す。
政治的暴力はその他の暴力とは感覚的にも倫理的にもちがう。たとえば、フランス人の6割が「社長監禁」に賛成している。争議の席につかず、夜間に工場を閉鎖してしまう社長に対してほかにどうしろというのか。ブドウ栽培農家は敷石を剥がして警官隊に投石する、銀行のウィンドーを破壊する。酪農業者はシャンゼリゼのど真ん中で火をたいてバリケードを作り、トラックから牛乳をぶちまけ、路上に牛を放つ。アンテルミタンはマクドナルドを封鎖し、区役所を占拠する。アンチファはネオナチと対決する。平和な政治的行動などない。なぜならそれは怒りの表現だからである。怒りが表現できてはじめて平和主義も成り立つ。
現在のフランスの社会運動を見ていると、ひとびとがかかげる要求と、決然と行使される暴力とのあいだには溝がある。要するに、ささいなことで暴動に発展する。皆、感じているのだ、ファシズム的な司法警察権力の膨張を。それに息苦しさをおぼえているのである。だから物を壊す。なりたくはないのだ、ファシズムを内面化=民営化したDV野郎に、治安と戦争に加担するだけの非暴力市民に。以下は今月25日、モンペリエでのブドウ栽培農家デモの様子。

2009年11月13日金曜日

ドン・キホーテたちの蜂起

ラ・マンチャの初老の男、ドン・キホーテは昼夜を問わず騎士道物語に熱中し、本を買うために財産を売り払うまでになり、とうとう頭がいかれて騎士を自称するようになる。彼は風車を巨人とみなし、突撃して吹き飛ばされる。セルバンテス作『ドン・キホーテ』である。
これは寓意だ。むろん「現実と空想を混同してはいけません」という説教ではない。逆に、無謀なことをやれという奨励でもない。セルバンテスが言わんとしているのは、周囲から頭がおかしいと思われるぐらい真実の感覚にこだわれ、さもなければ自分の敵すら見えないよ、ということである。世間は言う。「あれはたんなる風車だ」「それはたんなる国家だ。国家はなくならない」と。「反国家などと無責任なことを言うな」「頭がおかしいんじゃないか」と。「反資本主義などというが、目の前にあるのはたんなる会社じゃないか」「気のいい労働者ばかりではないか」と。おそらく、そうして世間からはじき出されてはじめて出会い生まれるし共謀も可能になる。
タルナック事件から一年が経過した。逮捕された若者たちは警察により『来たるべき蜂起』(彩流社近刊)の著者とみなされたが、憶測にすぎない。この書物において重要なのは、蜂起に大義はないということである。蜂起に賭けられているのは大義ではなく、「私」あるいは「我々」の自明性である。「仕事で一生を終えるのって違う」という感覚、「日本よりフランスのほうが楽しそう」「米の値段高くない?」という感覚である。そう感じたら、そう感じられるままの生を模索するしかない。これが蜂起の起源である。初老の男ドン・キホーテをつらぬいたのも、程度の差こそあれそうした感覚だった。いやなことには露骨にいやな顔をすること。仕事がたるいならたるそうに仕事をすること。そうすれば、仕事がたるいと同じように思っている仲間との出会いが生まれるし、そのぶん敵も明確になる。フランスではいま、反監獄闘争が高まっているが、それは監獄と自分の生存が両立しないと感じる感覚が分け持たれているということである。反監獄すらいえない社会で、自明の感覚もなにもないのだ。

2009年11月1日日曜日

徴用


約10名によるフランスレンヌでのスクウォット。
「もう払わないためにここで自己組織化する」
「われわれは家賃ストに入った!」
「パリ通り47番地は徴用された。あなた方の家にようこそ」

徴用っていい!

「急いでるから車を徴用させて」
「しょう油徴用していい?」
「住むところないから当分のあいだお宅を徴用します」

赤ん坊が生まれそうだから病院を徴用
会議したいから国会議事堂を徴用
遊びたいから車道を徴用
終電逃して交番を徴用

徴用しよう。