2012年2月21日火曜日

3.31 Operation Global Blackout




わーいわーい ねっとがおちる
(YouTube上の声明がブロックのせい?で貼りつけできない)

2012年2月14日火曜日

(私は善人でなくてほんとうによかった。

(私は善人でなくてほんとうによかった。咲くことだけ、流れることだけに、そうとは知らずに専念し、ただひたすらおのれの道にしたがっている花々や川たちのような、自然的エゴイズムをもっていてほんとうによかった。これこそが世界における唯一の使命なのだ。これ、すなわち、明澄に存在すること、そして、考えることなくそうする術を知っていること。)
―――Alberto Caeiro, O Guardador de Rebanhos (1946), 訳:廣瀬純

過日、わたしたちの太陽廣瀬純の連続講座を聴いて感動した。上記は廣瀬氏が当日くばってくれた教科書の内容の一部である。昔、ポーチュガルという名の香水を嗅いで噎せたっけ。ポルトガルに生まれた詩人F.ペソア(Caeiroはペソアのうちに出現した別の詩人)のこの詩は、わたしたちに「短絡の技術」をおしえ、「百の澄んだ大洋」を展開し、そうしてわたしたちは「われわれの存在のなかに潜む焼けつくような思いがたったひとつの海と結びついて二度と消えなくなる」(J=C・マルタン/杉村昌昭訳『フェルメールとスピノザ』)。
1914年3月8日に突如「わたし」のうちに出現した詩人とおなじように、またそれが身体のうちにあらわれたペソアとおなじように、わたしはわたしの永遠を生きたい。


ユーリヤは、自分がその小橋をわたり、さらに小路を通って、どこまでもどこまでも歩いて行くところを想像した――あたりは静まり返り、ねむたげなクイナが鳴き、遠くでは焚火がまたたいているのだ。と、なぜか不意に、空の赤い辺りにたなびいている雲も、森も、野原も、遠い昔に何度も見たことがあるような気がしはじめた。彼女は孤独な自分を感じ、この小路をいつまでも歩きつづけて行きたくなった。夕焼けの燃えている辺りには、何か地上のものならぬ、不滅なものの影が秘められていた。
―――A.チェーホフ『三年』原卓也訳

私の身体は私のかけがえのない唯一の舳である。これだけが、私が超自然的な何かをあてにすることなく死を乗り越える観点を表現する。私の身体のなかの何が永遠への参入を指し示すのだろうか?… 「ものは外部の原因によってしか破壊されえない」(『エチカ』第三部定理四)。
―――前出『フェルメールとスピノザ』

2012年2月13日月曜日

2012年2月12日日曜日

2012年2月7日火曜日

むざんなむくろとなった無為な建屋を

むざんなむくろとなった無為な建屋を、
いくら棺で覆っても毒の塵は消えず、
なにかのはずみで(あるいはなにもなくとも)まきちらされる。
この最新の公害があらゆるものの一蓮托生の網からうみだされたことからみて、
よりよい建屋、よりよい圧力・格納容器、よりよい原子力、よりよいエネシフはもとより、
よりよいイシハラ、よりよいハシモト、
よりよい正力松太郎、よりよい読売巨人軍、
よりよいAERA、よりよい報道ステーション、よりよいNHK、よりよい電通、 よりよいTSUTAYA、
よりよい東大、よりよい日能研、よりよい四谷大塚、よりよいTOEIC、
よりよいみずほ、よりよい三菱東京UFJ、よりよい三井住友、よりよいゴールドマンサックス、
よりよい東電、よりよい日立、よりよい三菱、よりよい東芝、
よりよいDeNA、よりよいMS、よりよいアップル、
よりよいユニクロ、よりよいイオン、よりよいスタバ、 よりよいトヨタ、
よりよい日本、
よりよい資本主義……
がありえないことはもはやだれの目にも明らかである。
同様によりよい社会もありえないことを悟るのにためらう理由はなにもない。
社会とは叛乱を封じこめるための建屋であり、
材質や施工の強度をどれほど上げようとも、
ほころびるたびにいかなる修正をほどこそうとも、
目に見えない塵は巻きあがり、拡散するのだから。
滅亡のオーメンを放射しつづけるふくいちを筆頭に、
家賃、賃労働、監視カメラ、家電、マイカー、マイホーム、ランキング、議会、選挙……
われわれは社会という虚構の書き割りを任じる各種の装置にとりかこまれている。
あなたが社会を構成するひとりであり、
あなたの思いやおこないが社会に反映すると語りかけるものがあるなら、
それもみな装置である。
だが、装置は建屋の部品にすぎない。
みおろしたりおおいかぶさってくるものにたいする反撥と、
騒乱の歓喜への欲望は、
社会よりもはるかに前からわれわれのもっともしたしい感情であったし(泣き叫ぶこども!)、
社会という覆いをもって隠すことはできても消すことはできない(泣き叫ぶおとな!)。
歌い、踊り、落書き、わめき、吐き、暴れ、群れても、
そのたびに解釈の手綱をにぎられ、
おどされ、蹴られ、なだめすかされ、
社会という名の建屋にとじこめられてきた。
(いまやただ街路に立ちつくしているだけで反社会の嫌疑をかけられる!)
おなじことのくりかえしに倦み、
毒に噎せ、借財の恐怖においたてられ、生存の苦いスープをすすってきた。
しかしそれでも、騒乱の記憶はいちども消えなかったし、
恋人の頬は上気し、友のてのひらには汗がにじみ、
ギターの弦ははじけ、靴はすりきれ、
解釈は凶悪に世界を読みとり、
フクシマの以前も以後も不穏な塵はいたるところに舞っている。
今夜も爆発の毒を抱いて眠ろう、
われわれにおおいかぶさろうとするもの、
目に見えない紐と網でわれわれをくくろうとするものにあらがい、
騒乱の朝の光に身を射られて、
歓喜の歌をくちずさむまでの短い時間を。

2012年2月2日木曜日

再開 グラフィティ考



グラフィティライターを取材したドキュメンタリー番組をみた。ライターは語る。いつもの風景に自分が残したグラフィティが忽然とあらわれる翌朝のひととき、それが最高なのだと。われわれはこのエピソードから再開しよう。
近代の時空を切り裂いた1789年、1848年、1871年、1917年、1968年とはしるしの氾濫である。それらはさまざまな革命体制、さまざまなかたちの直接民主主義を生み出した。革命の現前は革命の号令がもたらすのではない。革命に先行するのはしるしの脱領土化であり、それがひとを蜂起へと浮上させるのである。
たとえばときおり、クジラの群れが浜辺に打ち上げられることがある。座礁クジラ、それは無力の隠喩のクリシェではない。しるしを書く=読む生き物どもの力能のアレゴリーである。ガイガーカウンターの数値から地震雲にいたるまで、壁であれ本であれ恋人の表情であれ、ひとはしるしの海をさまよう。水面へと潜行せよ、深海へと浮上せよとしるしはいう。