2010年2月26日金曜日

犬が先、人間は後

2月24日、アテネ。
ギリシアには野良犬がごろごろうようよいて、
犬を「飼う」という発想自体が希薄であるという。
つまり、愛犬家って世界共通の普遍的な形象ではない。
そもそも犬って本来ストリートでだらだら、ごろごろ、わんわん
しているものだ。それでもまれに、ギリシアにも犬を飼う人間はいて、
その場合、犬と人間とのコミュニケーションは以下のように発揮される。




警察犬が市民を追いかける光景はもう過去のものとなった。
そして、犬につづいて人間も。



2010年2月10日水曜日

神話政治がはじまる

 イヴ・シトン『ミトクラシー 左翼のストーリーテリングとイマジネール』(2010年、アムステルダム出版)とともに左翼の神話政治がはじまる。神話こそ主戦場であり、本書はフーコー「蜂起は無駄なのか」やランシエール『解放された観客』とも響き合っているだろう。以下に、本書裏表紙の紹介文をざっと訳出しておきたい。
 イヴ・シトンは1962年生まれ、スイスの文学理論家であり、すでに『自由の裏面 フランス啓蒙主義におけるスピノザ的イマジネールの発明』(2006 年)や『読む、解釈する、現働化する なぜ文学研究か』(2007年、サルコジの『クレーヴの奥方』発言に対する介入)などが出ている。

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 一般に語られているところによれば、デモクラシーはある狡猾な悪によって腐敗したらしい。ひとを無気力にさせるメディアによって得々と伝えられる物語や神話の偏在のため、デモクラシーは夢遊病体制へと作り変えられてしまったという。デモクラシーは「人民の権力」から寓話の治世に変わったのだ。ミトクラシーmythocratieである。
 こうした無力な告発から抜け出すためには、問いを転倒しなければならない。マスメディア社会においてわれわれのふるまいを導く「ソフト権力doux pouvoir」の分析が必要であるとしても、重要なのは、その権力作用を断罪することではなく、そこから解放の道具を引き出すことである。そうした道具のうちでもっとも重要なのは神話それ自体だろう。じっさいわれわれが理解すべきは物語の力能――ミトクラシー――であり、それを用いることなのだ。そのためにはまず、(ソフト)権力について理論化しておく必要がある――本書は二つの章で、スピノザ、タルド、フーコーを着想源としながらそうした理論化の基礎部分を素描している。さらにはまた、人間の営みのなかでもとりわけ特異な次元であるこの「シナリオ化の権力pouvoir de scénarisation」を定義する必要がある。われわれの話や身ぶりは、この「シナリオ化の権力」をとおして、他者の自由なふるまいを語りの網の目のなかに書き込み、それを条件づけるのだ。最後に本書は政治的イマジネールの再定式化へといたる。この再定式化とともに、あらたな務め、あらたな介入の様式、パロールのあらたなスタイルが明確化されていくだろう。
 政治哲学、人類学、文学理論が交差する場所に、本書は無数のミトクラットたちを結集させる。アイスキュロスからディドロやサン・ラーをへてWu Mingにいたるまで。本書は、こんにち大いなる左旋回の必要を感じているすべてのひとびと、「左翼」がこれまで以上に再発明せねばならないものであることを知るすべてのひとびとに向けて書かれている。

2010年2月7日日曜日

労働者が学生のようになっていく

multitudes誌39号は大学特集である。みんな大学についてなにを考えているんだろう? テーマやキーワードはなんだろう? というわけで目次だけ紹介しておこう。

Yves Citton「マルチバーシティ的multiversitaireな持続注入あるいは拡散のもとにおける大学」
Davy Cottet他「フランス大学改革に直面したコニタリアートの出現」
Christopher Newfield「コニタリアートの構造と沈黙」
Collectif Edu-Factory「エデュファクトリー機械――トランスナショナルな政治と翻訳制度」
Hakim Bourfouka「研究の不安定な岸辺」
Jon Solomon「方法としての翻訳――ネオリベラル大学、あらたなputonghua(共なる言語)を練り上げる場」
Michail Maiatsky「ボローニャ風ピロシキ――ロシアの鏡がうつしだすヨーロッパの大学」
Artemy Magun「ポストソヴィエトのロシアにおける高等教育――その内側からの観察」
Denis Giordano「災厄に直面したアクロバシー――死に瀕したイタリアの大学のなかの希望の波」
Signataires anonymes「諸大学の幸福な改革のために」

なるほど。おそらく90年代以降の一連の大学改革には二つのプロセスが進行している。ひとつは大学を社会化するというもの。ネオリベラル社会だから、大学もネオリベ社会化するという。これが産学協同とか民営化とか呼ばれたものだった。ただし、今後はもうひとつのプロセスのほうが顕在化してくるのではないか。すなわち、社会を大学化するというプロセスである。ネグリは労働の女性化というが、労働者が学生のようになっていく、ともいえるはずだ。自分の周囲を見てみよう。まともな労働者なんてほとんどいない。変な労働者ばっかりだ。おそらく、彼ら彼女らは学生へと生成変化しつつあるのである。
給料は奨学金のようになっていくだろう。つまり申請して給料を受け取る。そのあと労働する。労働時間なんてもう意味ない。じっさい、フランスの物書きは申請して金をもらってから本を書いているし、生活保護だって申請して金もらってから生活する。でも、日本の奨学金とおなじで、どうせ審査がうざいはずだ。でもそうなればベーシックインカムまであとすこしかもしれない。ベーシックインカムよこせ! 奨学金(くれるやつ)よこせ!