2011年12月1日木曜日

大学という原発をトランストテゴる

中央教育審議会も、「知識基盤社会」というのなら、大学を社会の「原発」とするというような思い切った発想の転換を国に求めるべきです。大学では、さまざまな知が干渉しあうことによって知的な発熱が起こり、そのことによって未来の社会を担う人たちの情熱が焚きつけられる。だから大学そのものが社会の「原発」のようなものです。(石田葉月・岩崎稔・岡山茂・島薗進・西山雄二「討議 大学はいかに可能か」、岡山氏発言)

(…)われわれはあらゆるものを読み解きながら生きている。だから解釈の原理をつきつめていくならば、われわれの生の底にふれざるをえない。その意味で、解釈する者はつねにアルカイックな現在を生きているのだろうし、アニミズム的な人称性の問い(「それは私になにを語りかけているのか?」)のもとにある。そしてイヴ・シトンによれば、こうした「解釈の営為」の核心ではたらいているのが「転導性transduction」である。(…)個体やその集合は、モデルや形相の鋳型を外から押し付けることでつくりだされるのではない。「準均衡」という不安定な内在的状態があり、そこに遍在する微細な「ずれ」が相互に共振することで個体の結晶が生まれてくるという。この「ずれ」の共振による伝播が「転導性」とよばれているものであるが、それが解釈の営為をよく説明することはあきらかだろう。テクストが語るという、読むことのアレゴリーないしアニミズムのなかに、解釈する者はつなぎとめられている。そこで生じる「ずれ」をはらんだ「準均衡」状態を解消するために、外部の参照項を導入することは可能である。だが、その場合にも、解釈する者の主観性の「準均衡」状態が先行していたはずであり、解釈は内在しつつも既存の諸領域の「両立不可能性」を横断して生成していく。シトンはこの解釈の内在的かつ力動的なプロセスに人文学の原理的な可能性をみると同時に、ひとびとがみずから神話をつむぎだす「神話政治」をも構想する。体制を批判するだけでは不十分である。それは補綴の役割しかはたさない。解釈の「転導性」において、われわれはみずからの神話そのものを生きるべきである、と。(…)シトン=シモンドンのいうように、神話そのものへの内在=トテゴリーの共感覚的な振動(「ずれ」)に転導が生じるのであれば、大学とはトランストテゴリーなものである。それは内在しつつ、遠く近く伝播する。大学は国家や社会にたいして、読むことの未開の主観性を開示しているだけではない。解釈の転導性に定位しているかぎりにおいて、その未開の神話政治は風のことばとなって詩そのものを撒布していくはずである。(…)そうわれわれはみな、レイテ島を敗走しているのであり、プルーストの語る少女たちであり、マヤコフスキーの一億五千万である。
(白石嘉治「未開の大学 フクシマ以後のために」)

*いずれも『現代思想』12月号「特集 危機の大学」より