2012年7月4日水曜日

東京やめた



 「われわれが生であり、われわれが未来である」(タルナック・アンチ・カストール委員会)。
未来に未来はない。なぜなら、われわれの生が未来だから。

東京なんてやめちまえばいいのに。放射能なんて死ねばいいのに。

2012年7月2日月曜日

四角いオヤジたち

(東京新聞02/07/2012)





オッサンの夢は装置になること。

推進派、経済ぶりっこ、科学ぶりっこは装置にかぎりなく近づく。
言葉で特定されなくても写真をみただけでわかってしまう。
左の人がいい人かどうかわからないが、
右の人はあきらかに装置ぽい。
左の人のような人が近づいてくると、 オッサンは警戒する。
右の人のような人が近づいてくると、 オッサンは安心する。

祝島のじいさんばあさんは堂々としているが、
推進派は役場からNPOから漁師まで
みんなコソコソしていてシルエットが四角く装置臭い。
飯田哲也は装置っぽい気がするので
上関はひきつづき要注意である。

頭のわるい者Aの回答

勝手に糞まじめに回答します。

東京は低線量被曝動員地帯です。
私が東京を離れない理由はただひとつ、
愛する者がそこにいるから。
愛する者たちが東京を離れたら私も離れると思う。
それはキズナとか社会ではないので、
私は我慢してとどまっているのでなく、すすんで東京にいる。
なにもかもが変わったとはっきり思ういっぽうで、
情動や感情の面ではなにも昔と変わっていないかのように
よろこびとかなしみがかわるがわるおとずれている。
ひとりで田舎に行ったら装置みたいになってしまう気がする。
というか、私はあのあとじょじょに壊れて、
いろいろなタガがはずれてしまったので、
むしろ清々して徳が増えたような気さえしていて、
変な高揚があるのです。

あれ? それこそが動員、それも魂の動員ということか。
そういうわけで、思想家矢部史郎が
ひとりでも多くの人間を関東から退避させたいと書いているのは、
なるほどそういうことかと思います。
ひとり、またひとりと東京を離れれば、
いっさいの愛の錨が作用しなくなる。
そのときはじめて原子力都市東京の崩壊ということになるのでしょう。
発展の綱領、ちんこの夢としての
原子力都市の残滓だけが問題なのではなくて、
ほんとうに魂の戦争ということになってしまったのだろうか。

私にとって問題なのは、
愛する者といっしょに退避できるかどうかだけです。
そして重要なのは、「いっしょに退避する」には、
「ひとり×2」以上のカネがかかるということだと思います。
結局カネか。そうですね、結局、カネです。

正直な気持ちをいうと、いま日本にいない人は、
できるだけ帰ってこない方がいいような気がします。
日本では2年前と比べてとくに食うことについて、
もしゼロベクレルないし限りなくベクレルフリーでいこうと思ったら、
異様に糞カネがかかります。
(私は水や食物を選ぶせいで借金が増えました。)
東京はそういうのが突出しているので論外だが、
では東京以外では楽々防護生活ができるかといえば、
そうでもないでしょう。
東京では陸続と、若者だけでなく老年も具合が悪くなっています。
大飯のボロ機も動きだしてしまったので、西も怪しくなりました。
まきちらしたがれきを夜中にコソコソ燃やしているため、
九州でも静岡でもゲボゲボ具合が悪くなりだしています。
わざわざこのような危険な場所に戻る必要があるとは思えません。
被曝動員にかんして意味がわからないような、
頭のわるい外国滞在者にはずっとそのままでいてほしい、
というのは被曝動員者のわがままでしょうか。わがままですね。

東海アマさんは、安全な畑で自給自足でやっていくしかない、
と書いていたけれども、
私じしんは農業とか別に全然やりたくないんだけど、
でも愛する者たちと共同農園をやるならいいかな、とも思います。
しかしさ、日本に「安全な土」なんてあるのかねえ?

けれども、どうなるかわかりませんよ。
大飯で、官邸前で、新宿で、
いまにもナニしそうな人にいっぱい会うことができます。
おそろしい出来事がおきて、なにもかもひっくりかえるかもしれない。
いまは不可解な静態にみえても、ほんとうの動乱は、
ばたばた人がたおれはじめるこれからでしょう。