2009年5月30日土曜日

奇蹟は起きない、蜂起が起こる

ケン・ローチ監督『Looking for Eric』。題名のエリックとは元マンチェスター・ユナイテッドのサッカー選手エリック・カントナであり、実名で出演している。メディアでは同映画をサッカー映画として紹介する向きもあるようだ。なるほど、イギリスのありがちなフーリガン映画か、と思うかもしれない。だが全然ちがう。

近年の『麦の穂をゆらす風』をはじめとするケン・ローチの映画作品が、幾度となく歴史的なアナキズムをフィクションとして描いてきたように、今回もまた純然たるアナキスト映画である。ただし、『Looking for Eric』で描かれているアナキズムは、監督が公然と支持するオリヴィエ・ブザンスノらの「新たなる反資本主義党NPA」のアナキズムというよりも(主人公はイギリスの郵便局員である)、むしろオルターグローバリゼーション・シーンで活躍するブラック・ブロックや『来るべき蜂起』(2007年)におけるアナキズムと親和的である(同書は今秋彩流社より邦訳刊行予定)。同時に、『Looking for Eric』は過激なまでにアナルコ・サンディカリスム的である。つまりケン・ローチの想像力は、これまでおもな主題だったスペイン内乱時のアナキズムから歴史的に遡行し、19世紀末、20世紀初頭のアナルコ・サンディカリスムをみずみずしく蘇らせるとともに、現在のアナキズムを、その可能性を大胆にしめすのである。ストーリーは伏せておこう。一言だけ。われわれは顔を覆い、群集としての力を見せつける。それがデモス(人の集団)というものだ。この映画において奇蹟は描かれない、だがデモスの蜂起が起こる。日本では公開未定。

昨日28日、『来るべき蜂起』(「不可視の委員会」)の執筆にかかわったとされ、フランス高速鉄道TGVのサボタージュの主犯とみなされ6ヶ月間にわたり投獄されていたジュリアン・クーパが保釈された。結局、この匿名で書かれた書物は、犯行の証拠にかわるものとしてなかば公然と名指されてきたにもかかわらず、司法・警察によってその著者が断定されることはなかった。匿名であることはいかがわしい。匿名の書物が蜂起について、コミューンについて、内乱について語っていたとすれば、なおさらいかがわしい。だがこうしたいかがわしさは、すべての文学が目指すものではないだろうか。むろん、書物が断罪の対象されることは、現代先進諸国においてはとんでもない事態だ。だが、ヴォルテールやボードレールの例をあげるまでもなく、歴史上、そうしたことは幾度となく繰り返されてきた。周知のとおり、ヴォルテールの著書はフランス革命において結晶し、ボードレールの詩集は48年2月革命のテンションをそのままパリ・コミューンへとつなぐものだった。『来るべき蜂起』。蜂起は結晶しつつあるのかもしれない。書物は危険たりうる。すばらしい兆候だろう。

2009年5月22日金曜日

大学生詩を撒く


現在、パリ第8大学正面には以下のような横断幕がかかげられている。

「もし奴らがわれわれの言うことを聞けないなら、われわれを恐れることになるだろう。ゼネスト!」

学内。「サツかならず者か」

「選ばなくてはならない」

「サツどもも自殺すれば半分は許せるだろうか」
中世の大学において権威である神学部にたいして抗争した人文学者。その抗争のさなか、人文学者は無頼漢=ゴリアールとなる。当時の大学街に夜な夜な響き渡っていたのは、幸福、無為、メランコリー、そして愛を歌うかれらの哀切な歌声だった。「サツかならず者か」と書かれた壁詩は、たんなるヤクザ者の戯言ではない。その言葉は、ボブ・ディランの歌詞を引用しつつドゥルーズが述べた「裁く者であるよりは清掃人でありたい」という一文とふかく共鳴する。そしてこの壁詩は世界中の大学で意味を持つだろう。たとえば警察=法政大学にあらがう文化連盟の学生。
いずれにせよ、学生たちの詩――つぶやきであれ叫びであれ――が世界を囲繞するとき、蜂起は結晶するはずだ。

2009年5月18日月曜日

山猫デモはルーヴルへと向かう


デモが終了すると山猫デモmanif sauvageがはじまる(写真は5月14日、大学改革反対デモ)。交通はどうなる、一般人にたいして迷惑じゃないのか、と疑問におもうかもしれない。パリのひとびとは無届けの山猫デモにたいしておおむね好意的だ。車は速度をおとし、デモ隊が通り過ぎるのを待つ。窓をあけ「おれも大学改革反対だよ」「サルコジ嫌いだよ」と賛意をあらわす。デモ隊のコールにあわせてクラクションを鳴らす。つまり、交通を遮断してすみません、ではなく、交通のほうが、デモに参加できなくてすみません、応援してます、という力関係なのである。

この学生たちのデモ隊がサンジェルマン大通りからセーヌ川をわたって向かったのはルーヴル美術館だった。学生たちは口々に叫ぶ、「学生はタダだ!」と。実際は26歳以下が割引き、18歳以下が無料となっているだけで、学生はタダで入ることはできない。むろん、学生が美術館にタダで入れない世界のほうがおかしい。そして、学生たちの叫びが意味しているのは「おれたち学生なんだから美術館ぐらいタダで入らせろよ」ということである。正しい。
学生の傲慢だろうか。潤沢な奨学金(ローンじゃない!)にめぐまれ、学費が原則無償のヨーロッパの学生たちの世間を知らないおごりだろうか。ひとつだけいえるのは、学生が傲慢になれない社会というのは、とてつもなく不幸な社会だということである。むろん社会は不幸だ。それはネオリベラルなマネージメント原理主義に貫徹されているのだから。だが、その社会の不幸が学生たちの倨傲を押しつぶすとき、社会は未来までも暗黒に染めてしまう、不幸にしてしまう。学生とはおごれる存在である。なぜなら彼女彼らは現行の社会を再生産するのではなく、あらたな社会を生産しようというのだから。ネオリベラルな自由とは一切関係のない本物の自由を学生たちは創出しようとしているのだ。

法政大学当局は恥を知れ!

2009年5月14日木曜日

ソルボンヌ大学のサイトに…


「学長たちが街頭に繰り出すとき」という記事を発見。写真つき(上)。3月24日の大学改革法の撤回をもとめるデモにパリ第4大学、第8大学学長が参加したというもの。横断幕(「学長たちは満足していない」)をかかげる左の人物がパリ第8大学学長Pascal Binczak、右がソルボンヌ学長Georges Molinié。学長はきっぱりと言う、「われわれは共和国の学校には賛成だが、ウォールストリートの学校には反対する」と。共和国か民主主義かという問題はさておき、重要なのは、かれがはっきりと学校(大学)を反ウォールストリート、つまり反資本主義だと語っている点である。大学のマネージメントに汲々とする日本の学長たちもそろそろ目を覚ましたらどうか。学長とは反資本主義者がつとめるのだ。そして大学とは反資本主義だ。日本は私立大学が多い?だから年間百万円の学費もしょうがない?知ったことか!「なぜわたしたち学生は年間100万円の学費を支払わなくてはならないのか」という学生たちの問いに真面目に答えてみろ。「なぜヨーロッパの大学はタダで日本ではそうではないのか」「なぜ学問するために糞みたいなバイトをしなくてはならないのか」という問いに、答えられるものなら答えてみろ。日本の学長たちは大学の成果を「社会に還元する」という。社会がそんなにエライのか。現行の社会が糞ではないとしたら何なのか。社会を生み出すのが大学ではないのか。とにかく学長はいますぐデモしろ!
http://www.univ-paris4.fr/fr/spip.php?breve340

2009年5月4日月曜日

パトロン

He loves you yeah yeah yeah
He loves you yeah yeah yeah
He loves you yeah yeah yeah yeah!
http://d.hatena.ne.jp/asita211/20090427/1240829053

2009年5月2日土曜日

4月28日大学デモの一幕


4月初頭のストラスブールでの反軍事サミット行動をうけ、
現在フランスではデモ参加者がカグール(覆面)を着けることを
禁止する法案が提出された。スカーフ(宗教)からカグール(政治)へ。
どうなるブラックブロック?
だが心配にはおよばなかった。上は4月28日のデモの一幕。
「気をつけろテロリストだ!」「ぼくの写真欲しい?」
「おれ、豚インフルに感染してるよ」などなど。
よく誤解されるように、民主主義とは「現れの政治」ではない。
現れたくない人間もいるからだ。そうではなく、
民主主義という運動の本質は「隠れたまま現れる」という
ことだとおもう。公共ではなくいかがわしい群集状態にこそ、
民主主義はやどる。