(私は善人でなくてほんとうによかった。咲くことだけ、流れることだけに、そうとは知らずに専念し、ただひたすらおのれの道にしたがっている花々や川たちのような、自然的エゴイズムをもっていてほんとうによかった。これこそが世界における唯一の使命なのだ。これ、すなわち、明澄に存在すること、そして、考えることなくそうする術を知っていること。)
―――Alberto Caeiro, O Guardador de Rebanhos (1946), 訳:廣瀬純
過日、わたしたちの太陽廣瀬純の連続講座を聴いて感動した。上記は廣瀬氏が当日くばってくれた教科書の内容の一部である。昔、ポーチュガルという名の香水を嗅いで噎せたっけ。ポルトガルに生まれた詩人F.ペソア(Caeiroはペソアのうちに出現した別の詩人)のこの詩は、わたしたちに「短絡の技術」をおしえ、「百の澄んだ大洋」を展開し、そうしてわたしたちは「われわれの存在のなかに潜む焼けつくような思いがたったひとつの海と結びついて二度と消えなくなる」(J=C・マルタン/杉村昌昭訳『フェルメールとスピノザ』)。
1914年3月8日に突如「わたし」のうちに出現した詩人とおなじように、またそれが身体のうちにあらわれたペソアとおなじように、わたしはわたしの永遠を生きたい。
ユーリヤは、自分がその小橋をわたり、さらに小路を通って、どこまでもどこまでも歩いて行くところを想像した――あたりは静まり返り、ねむたげなクイナが鳴き、遠くでは焚火がまたたいているのだ。と、なぜか不意に、空の赤い辺りにたなびいている雲も、森も、野原も、遠い昔に何度も見たことがあるような気がしはじめた。彼女は孤独な自分を感じ、この小路をいつまでも歩きつづけて行きたくなった。夕焼けの燃えている辺りには、何か地上のものならぬ、不滅なものの影が秘められていた。
―――A.チェーホフ『三年』原卓也訳
私の身体は私のかけがえのない唯一の舳である。これだけが、私が超自然的な何かをあてにすることなく死を乗り越える観点を表現する。私の身体のなかの何が永遠への参入を指し示すのだろうか?… 「ものは外部の原因によってしか破壊されえない」(『エチカ』第三部定理四)。
―――前出『フェルメールとスピノザ』
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