2009年11月13日金曜日

ドン・キホーテたちの蜂起

ラ・マンチャの初老の男、ドン・キホーテは昼夜を問わず騎士道物語に熱中し、本を買うために財産を売り払うまでになり、とうとう頭がいかれて騎士を自称するようになる。彼は風車を巨人とみなし、突撃して吹き飛ばされる。セルバンテス作『ドン・キホーテ』である。
これは寓意だ。むろん「現実と空想を混同してはいけません」という説教ではない。逆に、無謀なことをやれという奨励でもない。セルバンテスが言わんとしているのは、周囲から頭がおかしいと思われるぐらい真実の感覚にこだわれ、さもなければ自分の敵すら見えないよ、ということである。世間は言う。「あれはたんなる風車だ」「それはたんなる国家だ。国家はなくならない」と。「反国家などと無責任なことを言うな」「頭がおかしいんじゃないか」と。「反資本主義などというが、目の前にあるのはたんなる会社じゃないか」「気のいい労働者ばかりではないか」と。おそらく、そうして世間からはじき出されてはじめて出会い生まれるし共謀も可能になる。
タルナック事件から一年が経過した。逮捕された若者たちは警察により『来たるべき蜂起』(彩流社近刊)の著者とみなされたが、憶測にすぎない。この書物において重要なのは、蜂起に大義はないということである。蜂起に賭けられているのは大義ではなく、「私」あるいは「我々」の自明性である。「仕事で一生を終えるのって違う」という感覚、「日本よりフランスのほうが楽しそう」「米の値段高くない?」という感覚である。そう感じたら、そう感じられるままの生を模索するしかない。これが蜂起の起源である。初老の男ドン・キホーテをつらぬいたのも、程度の差こそあれそうした感覚だった。いやなことには露骨にいやな顔をすること。仕事がたるいならたるそうに仕事をすること。そうすれば、仕事がたるいと同じように思っている仲間との出会いが生まれるし、そのぶん敵も明確になる。フランスではいま、反監獄闘争が高まっているが、それは監獄と自分の生存が両立しないと感じる感覚が分け持たれているということである。反監獄すらいえない社会で、自明の感覚もなにもないのだ。

0 件のコメント: