とりとめのない恐怖と残忍に思いをはせたのは、3.11よりも前に、矢部史郎著『原子力都市』を読んでからです。[…]矢部氏は、核時代の空間の”顔のなさ”をやわらかな筆致で、しかし哲学的に見つめています。[…]「「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である」という記述に特に目をひかれました。(辺見庸『瓦礫の中から言葉を』NHK出版新書)
先日身内の葬式でK市に行った。東葛を通る電車(ぞぞ~)が、えんえんとつづく水田と畑(ぞぞぞ~ 生産するな!!!)が、利根川の土手(うわーっっっ)が、何もかもが怖すぎて発狂しそうになる。スズメなど鳥もいないような気がする。辺見庸が引証する矢部史郎のいうとおり、全総が原子力都市を生み、千葉平野をとりとめなくしたことを痛感する。自存力が殺がれるのを感じる。平原のかなたには筑波山が霞んでいる。多少の核種はあの山並みでブロックされただろうが、こんなに平滑部分が広くては焼け石に水である。あのかなたから来やがった。東京で放射能埃に脅える日々が1年余にわたり、そろそろ不気味な「慣れ」に注意せねばならない時期、核種がおそろしく微細で軽く、どこへでも飛んでいけることをあらためて得心し、脅えを刷新する。こんなに平らでは降り注ぎ放題、巻き上がり放題じゃないか(まだ出てるし)。
マスクをしっぱなしで、帰るやただちに全身洗濯をしたけれども、そもそもそういうしがらみを一切拒絶できない自分が恥ずかしい。乳幼児を連れてきていた遠戚がいて、嫌々来たのかもしれないがそれにしてはマスクもしていない。くわえて焼き場に向かう車中では「お~いお茶 玄米茶」を子ども含め回し飲みしていたので、親が「気にしない派」であることが確認された。ほとんど面識がなかったが思わず「子ども連れてきちゃだめですよ」と非難すると、こちらが狂人のような扱いを受けた。
除染→帰村、復興、絆、食べて応援、フクシマをえんがちょ扱いしてはいけない、それくらいだいじょうぶでしょ…すべて愚かしいものいいは「社会」から発している。日本社会とは日本株式会社のことであり、会社なんぞなくなったって人間は生きていける。愛する者さえいれば。あるいは愛する者がいないとすれば、それもじつは「自分の問題」ではなく「社会」が障害となっていることを一度は疑ってみるべきである。
放射能とのたたかいを優先させ、文学はそのあとで? そういう話はそういう話をしたいひとびとに委ねる。生活と文学ないし表現の順序を云々する議論は(たとえそれが「どちらも必要」という話であっても)断じてうけいれない。『チェルノブイリの祈り』はすばらしい本であり、結果的に社会を破壊する文学となった。けれども、あのような「祈り」が厄災を経てうみだされ、文学となったという事態の経過に股間が裂けそうなほどの怒りをおぼえる。消防士の妻は語った、「どんなに愛していたかを話したかった」と。
なぜ愛することが悲嘆の祈りに変わってしまったのか? 愛の永遠を、彼が殺されることなしに彼女は語り、歌うことができたはずなのに。苦悩を言葉にする営みは文学のひとつの様態にすぎない。辺見もいうように、われわれフクシマ人はまだ「苦悩にみあう言葉」をみつけていないかもしれない。しかしいっぽうで、悪の華はすでに、3.11のずっと前から、裏路地のそこここで狂い咲いてきたし、それが「原子力都市」のしるしでもあった。文学は社会の臓腑を喰い破って未来となる。フクシマ後に「原子力都市の文学」が生まれつつあるのではない。「文学にもとづく原子力都市」がフクシマを含めたわれわれの世界なのである。
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