2012年4月21日土曜日

反原子力のドラマ

フィリップ・ソレルスとエマニュエル・デコンブによる『ギィ・ドゥボール、奇妙な戦争』。マオイスト・ソレルスのことは知らない。でも映画は面白そうだ。ソレルス自身のサイトで見ることができる。


ランシエールの『解放された観客』(2008年)以降、「スペクタクル批判」批判という主張がしばしばなされたが、われわれはさらにそれを批判することが可能である。じっさい、ランシエールの「解放された観客」というヴィジョンでは、原子力帝国の統合されたスペクタクルにも、そこに内在する新自由主義にも対峙することができない。原子力帝国の因果律は陰謀論的であり、そのネオリベラルな諸装置は形而上学的である。原子力都市においては万人が観客であるが、それは解放などではない。われわれに新鮮な息吹を与えてくれるのは、ランシエールの「スペクタクル批判」批判ではなく、スペクタクル的内在平面を徹底するドゥボールでありブレヒトである。

両者に共通するのはリアリズム演劇である。それはランシエールの批判にもかかわらず、演劇(知のポリス的主体)と観客(ポリスから疎外された無知なる客体)という二元論からできているのではない。演劇が観客を組織化するというのではなく、真実が高次の次元をへずに自己ドラマ化されるというリアリズムである。ドゥボールがスペクタクル社会の興亡をえがくように、ブレヒトは資本主義社会のはじまりと終わりを上演する。ブレヒト演劇のモンタージュのひとつひとつが剽窃可能であるように、ドゥボールの前衛劇は都市住人のみぶりのあいだに感染していく。両者のリアリズムにおいては、デモやストライキといった「行動」にたいして劇作の「夢」があるのではなく、デモやストライキと同じ平面に演劇行為が置かれているのである。その演劇は「夢と行動が姉妹である世界」(ボードレール)なのだ。ブレヒトの言葉を銘記しよう。

すべてをみぶりに帰納する目は、モラルである。

原子力資本主義のスペクタクルが中断され、すべてがみぶりに帰納されるときに「真実」のドラマ化が開始される。ブレヒトがいうように、このドラマ化は、以下のようなエチカのプログラムを経由するだろう。すなわち、真実を語る勇気をもつこと。真実を認識する賢明さをもつこと。真実を武器として使いこなす技術をもつこと。真実を手渡すべきひとびとを見出す判断力をもつこと。真実を拡散する策略をもつこと。真実は正義であるが、それは拘束するのではなく、自由なる創発として発現する。古臭い真実はドグマであるが、新しい真実は自由にふるまうことができるのだ。こうしたリアリズム平面において、日常的ないかなるみぶりもデモやストライキやドラマへと自己組織化されうる。ひそかな叙事演劇はすでにメトロポリスで進行中である。悲劇のパトスを寸断する真実のみぶりが拡散し、来たるべきリベンジが到来するだろう。ブレヒトを、ドゥボールを読みなおそう。東電、野田、枝野、細野、藤村、仙石、社畜ども、真実をなめんなよ。

0 件のコメント: