したがって『古事記』のミトクラシーの賭け金とは、起源へと逐語的にたちかえることで出来事のはじまりをよびこむことであり、黒田(喜夫)において端的だったように、そうした反復によって生じる起源の修辞的な「空白」のなかに民衆の声を聴きとることである。民衆が欠けているのは、それが「自己異空間」の空隙にやどるからである。帰郷を幻想というだけでは不十分である。空想のゲリラがはぐくまれるのは、帰属も連帯もない「辺境性」においてである。
(白石嘉治「『古事記』のミトクラシー」、『現代思想』2011年5月臨時増刊号「総特集:古事記 1300年目の真実」)
バイクをとばしても どこへも帰れない
バイクをとばしても 帰りつづけるだけのぼくらは
寄り道をしてるんだ
くるまはカバのように 潰れていたし
街中がくずれた
それで 君を呼んだのに
君の愛で間に合わせようとしたのに
(忌野清志郎『君を呼んだのに』1982)
きりきりづんは まんなごはァすんでえで
ほぺたとゆんめはァ ふぐれでで
だんべとのんぞみはァ おっきくて
べちょことすりょはァ ねれでぇんだちゃ
(井上ひさし『吉里吉里人』1981)
ひさかたの 天の香具山 利鎌に
さ渡る鵠 弱細 手弱腕を
まかむとは 我はすれど さ寝むとは
我は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり
(『古事記』)
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