昨日の高円寺により、革命が確定した。革命とは、人々が間接民主制から直接民主制に移行することを意味する。それゆえ4月10日の知事選はすべて無効だ。真実の流言を飛ばし、路上でおどる民衆がイニシアティブを掌握したからである。
大学も同様だ。革命下の大学において、イニシアティブは大学当局ではなく、学生、外国人、市民、教員の各人がにぎっているのである。友人二人からビラがとどいた。一語一句、ていねいに読んでいただきたい。ゼネストが呼びかけられている。大学に真の政治がはじまる。準備しよう。
脱原子力大学ゼネラルストライキ宣言
全学生、全教員に告ぐ。脱原子力大学ゼネラルストライキを決行せよ。
*
地震から一ヶ月が経とうとしている。日常は以前の通り回帰したかのようだ。震災地では「復興」が始まっているという。最悪の事態は過ぎ去り、このまま静観すれば事態は回復するかのようだ。桜が咲いている。
しかし、誰もが気づいているはずだ。そんなことはまったくの嘘でしかないということを。一見平静にみえ、また自らもそのように過ごしている日常が、いかなる根拠も欠いているということを。
福島第一原発が爆発した。政府、東電、経産省、原発推進派の白豚どもよ。おまえらのせいで被曝したぞ。放射能の噴出はとどまることをしらない。近隣地区は空気も土も海もすべて侵され、肉も野菜も魚も食べることができない。水さえ安心して飲めない。そんななかで、大学が授業を開始する。学生は平静をよそおい、なにごともなかったかのように授業にでなければならない。これだけ放射能がばらまかれているのに。あからさまに被曝しているのに。
*
原子力は非物質的な力をコントロールし、労働へ動員するための究極の技術である。知識と情報、それをもちいる感性と情動。いかようでもありうるはずのその力が産業界のために動員されている。原子力の高度な知識。専門家の知識にしたがって、作業員がうごかされる。どんなに過酷でも逆らえない。逆らえば核爆発をひきおこし、地域住民全員を死におとしいれかねないからだ。地域住民も専門家の知識にしたがうしかない。放射能は空気のように透明で見えず、その恐怖を払拭するには専門家にすがるしかない。
1970年代、大学で原子力化というべき事態がおこった。本来、大学は学生と教員が非物質的な力をいかし、望むべき未来の実験をおこなう場所であった。だが、その力がおもむろに労働に動員されている。産業界のための高度な知識。教員はその専門家として知識をきわめ、学生に知識をさずける。仕事がどんなに忙しくなっても逆らえない。逆らえば学生の迷惑になると思って。学生は卒業して就職するために、食いっぱぐれる恐怖のために、教員にすがるしかない。なにも考えずに専門家の指示を聞くこと。それが生きる唯一の選択肢だとむりやり思いこんで。
しかしいま、われわれの目のまえで原発が爆発している。核の脅威とかそういうレベルではない。実際に人間が殺され、数千万の人びとが被曝している。原子力はもう破綻している。だがそれにもかかわらず、労働への動員だけが肥大化している。被曝労働に従事する作業員、自衛隊、消防隊。かれらは英雄視され、国民の鏡とされる。家族のため、友のため、日本のための特攻隊。かれらのような英雄になろうと、誰もが自問させられる。自分はなんなのか、自分ができることはなんなのか? 恥知らずにも、ある大学教員はこんなことを言っていた。「わたしのような文学研究者には原発はどうすることもできませんが、いまは自分がやれることをやりたいと思います。文学研究をしましょう」。どうかしている。どうかしているが、誰もがおなじ言葉を繰りかえす。お笑い芸人はお笑いを。会社員は会社勤めを。学生は勉強を。誰かのため、みんなのためになにかをしたい。非物質的な力がコントロールされ、労働に動員される。正しい知識をもった専門家。かれらの指示にしたがいましょう。世間では原発批判はタブーである。みんな怖いのに、やれることをやろうとしているのだから、迷惑をかけるな、パニックをおこすな、デマを流すな。原子力の専門家を信じよう。安全です安全です安全です安全です安全です。専門家の知識を疑ってはいけません。あなたもわたしも、自分にできること、自分の専門だけをしっかりやろう。平静になって、ふだんどおり大学に行こう。
しかし、学生、教員のみなさん。真実から目をそむけないでほしい。原発は爆発したぞ。専門家は平気でウソをつくぞ。東大の原子力研究者たち、かれらは年間数千億のカネをもらう世界でも最高峰の専門家集団と目されてきた。だが、かれらの知識は破綻をきたし、いまでは「放射能は安全です」とでも言わんばかりだ。正直、われわれのほうがまともなことを言える。いまトップクラスの専門家の化けの皮がはげた。いわんや他分野をやだ。学生、教員のみなさん、あなたがたはそれでも平静をよそおい、ふつうに授業に行くというのか。専門家の知識を学びにいこうというのか。疑え。専門家にしか担えない知識なんて存在しない。専門家なんてくそくらえだ。疑え。
この国は原発という装置によって、放射能という途方もなく大きな力を絶えず監視し、管理しながら独占し続けてきた。原発が爆発した今、放射能はだだ漏れに漏れ、止める手立てに慌てふためく専門家は、大真面目に入浴剤や新聞紙まで持ち出す始末だ。笑えばいいのだろうか?よくわからないが、はっきりしているのはもう「おわっている」ということだろう。これこそが専門家の成れの果てだということだ。放射能に汚染された水を止められるのもつかの間、いずれまた別の裂け目から水は漏れ、流れ出すだろう。流れとはそういうものだ。放射能と同様にわれわれの力能も目に見えるものではない。力能の管理・独占の象徴であった原発が破綻した今こそ、専門性の名の下におこなわれる動員に背を向けて、われわれ自身のものである力能を組織しなおし、原発もろとも資本主義そのものを廃炉にするために、あらゆることを思考し、行動するべきときである。「正確な情報をもとに平静な行動を」?「 やれることをやろう」?そんなことを言うやつがいたら、おもいきりツバをはきかけてやれ。そいつは敵だ。白豚だ。パニックになってなにが悪いのか。われわれの情動を表現できない「正確さ」に何の意味があるというのか。途方もない被害を出しつづける人災を前にして、なぜ言葉を失ってはいけないのか。恐れ、怯え、怒り、取り乱して泣き叫んではなぜいけないのか。東大の原子力研究者をみつけたら、言葉にならなくても言い、なんでもいい、とにかくおもいきり罵声をあびせかけてやれ。なんどでも、なんどでも自分自身の真実の言葉を、辞職するまで繰りかえせ。
いま呼びかける。脱原子力大学ゼネラルストライキ。ただ教えることを、ただ教えられることを拒否しよう。いったいなんのために。就職のため? 研究のため? 自分の専門にとじこもり、専門家に支配されるのはもうやめだ。専門性の行き着く先は、日々われわれがめにすることとなったあの愚鈍さであり、あのポンコツ加減なのだ。はじめから考えてはいけないことなんてなに一つない。はじめから言ってはいけないことなんてなに一つない。目のまえで原発が爆発している。恐ろしい。これが真実だ。真実は誰にでも考えられる。誰でもいやおうなく考えてしまう。慌てふためきパニックに陥るわれわれを嘲笑い、したり顔で落ち着くように説き伏せるものたち。薄汚いモラルで専門性に戻るように、消費者に、労働者に、学生に戻るように、持ち場に帰れと言い募るものたち。「がんばろう、日本」などど、情けなさもきわまるスローガンをもって、「復興」を騙るものたち。どうか邪魔をしないでほしい。真実を前にして、われわれは別のモラルとともにある。われわれは外国人である。すべての原子力発電所を即刻廃止へ。桜の花びらだけでなく放射能が飛びかうなかで「冷静に」授業なんてやっているひまはない。専門性へと引きこもろうとする大学を止め、偉大なるおしゃべりをはじめよう。全世界の原発の廃炉のために、資本主義の廃炉のために、知恵をひねりだそう。好き勝手でいい。大学で、街頭で表現しよう。原子力の動員なんてくそくらえ。逆らえ。慌てろ。真実から目をそらすな。
脱原子力大学ゼネラルストライキ。原子力化した大学を止めろ。脱原子力の知性を爆発させよう。
4月10日 脱原子力大学ゼネラルストライキ委員会
大学も同様だ。革命下の大学において、イニシアティブは大学当局ではなく、学生、外国人、市民、教員の各人がにぎっているのである。友人二人からビラがとどいた。一語一句、ていねいに読んでいただきたい。ゼネストが呼びかけられている。大学に真の政治がはじまる。準備しよう。
脱原子力大学ゼネラルストライキ宣言
全学生、全教員に告ぐ。脱原子力大学ゼネラルストライキを決行せよ。
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地震から一ヶ月が経とうとしている。日常は以前の通り回帰したかのようだ。震災地では「復興」が始まっているという。最悪の事態は過ぎ去り、このまま静観すれば事態は回復するかのようだ。桜が咲いている。
しかし、誰もが気づいているはずだ。そんなことはまったくの嘘でしかないということを。一見平静にみえ、また自らもそのように過ごしている日常が、いかなる根拠も欠いているということを。
福島第一原発が爆発した。政府、東電、経産省、原発推進派の白豚どもよ。おまえらのせいで被曝したぞ。放射能の噴出はとどまることをしらない。近隣地区は空気も土も海もすべて侵され、肉も野菜も魚も食べることができない。水さえ安心して飲めない。そんななかで、大学が授業を開始する。学生は平静をよそおい、なにごともなかったかのように授業にでなければならない。これだけ放射能がばらまかれているのに。あからさまに被曝しているのに。
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原子力は非物質的な力をコントロールし、労働へ動員するための究極の技術である。知識と情報、それをもちいる感性と情動。いかようでもありうるはずのその力が産業界のために動員されている。原子力の高度な知識。専門家の知識にしたがって、作業員がうごかされる。どんなに過酷でも逆らえない。逆らえば核爆発をひきおこし、地域住民全員を死におとしいれかねないからだ。地域住民も専門家の知識にしたがうしかない。放射能は空気のように透明で見えず、その恐怖を払拭するには専門家にすがるしかない。
1970年代、大学で原子力化というべき事態がおこった。本来、大学は学生と教員が非物質的な力をいかし、望むべき未来の実験をおこなう場所であった。だが、その力がおもむろに労働に動員されている。産業界のための高度な知識。教員はその専門家として知識をきわめ、学生に知識をさずける。仕事がどんなに忙しくなっても逆らえない。逆らえば学生の迷惑になると思って。学生は卒業して就職するために、食いっぱぐれる恐怖のために、教員にすがるしかない。なにも考えずに専門家の指示を聞くこと。それが生きる唯一の選択肢だとむりやり思いこんで。
しかしいま、われわれの目のまえで原発が爆発している。核の脅威とかそういうレベルではない。実際に人間が殺され、数千万の人びとが被曝している。原子力はもう破綻している。だがそれにもかかわらず、労働への動員だけが肥大化している。被曝労働に従事する作業員、自衛隊、消防隊。かれらは英雄視され、国民の鏡とされる。家族のため、友のため、日本のための特攻隊。かれらのような英雄になろうと、誰もが自問させられる。自分はなんなのか、自分ができることはなんなのか? 恥知らずにも、ある大学教員はこんなことを言っていた。「わたしのような文学研究者には原発はどうすることもできませんが、いまは自分がやれることをやりたいと思います。文学研究をしましょう」。どうかしている。どうかしているが、誰もがおなじ言葉を繰りかえす。お笑い芸人はお笑いを。会社員は会社勤めを。学生は勉強を。誰かのため、みんなのためになにかをしたい。非物質的な力がコントロールされ、労働に動員される。正しい知識をもった専門家。かれらの指示にしたがいましょう。世間では原発批判はタブーである。みんな怖いのに、やれることをやろうとしているのだから、迷惑をかけるな、パニックをおこすな、デマを流すな。原子力の専門家を信じよう。安全です安全です安全です安全です安全です。専門家の知識を疑ってはいけません。あなたもわたしも、自分にできること、自分の専門だけをしっかりやろう。平静になって、ふだんどおり大学に行こう。
しかし、学生、教員のみなさん。真実から目をそむけないでほしい。原発は爆発したぞ。専門家は平気でウソをつくぞ。東大の原子力研究者たち、かれらは年間数千億のカネをもらう世界でも最高峰の専門家集団と目されてきた。だが、かれらの知識は破綻をきたし、いまでは「放射能は安全です」とでも言わんばかりだ。正直、われわれのほうがまともなことを言える。いまトップクラスの専門家の化けの皮がはげた。いわんや他分野をやだ。学生、教員のみなさん、あなたがたはそれでも平静をよそおい、ふつうに授業に行くというのか。専門家の知識を学びにいこうというのか。疑え。専門家にしか担えない知識なんて存在しない。専門家なんてくそくらえだ。疑え。
この国は原発という装置によって、放射能という途方もなく大きな力を絶えず監視し、管理しながら独占し続けてきた。原発が爆発した今、放射能はだだ漏れに漏れ、止める手立てに慌てふためく専門家は、大真面目に入浴剤や新聞紙まで持ち出す始末だ。笑えばいいのだろうか?よくわからないが、はっきりしているのはもう「おわっている」ということだろう。これこそが専門家の成れの果てだということだ。放射能に汚染された水を止められるのもつかの間、いずれまた別の裂け目から水は漏れ、流れ出すだろう。流れとはそういうものだ。放射能と同様にわれわれの力能も目に見えるものではない。力能の管理・独占の象徴であった原発が破綻した今こそ、専門性の名の下におこなわれる動員に背を向けて、われわれ自身のものである力能を組織しなおし、原発もろとも資本主義そのものを廃炉にするために、あらゆることを思考し、行動するべきときである。「正確な情報をもとに平静な行動を」?「 やれることをやろう」?そんなことを言うやつがいたら、おもいきりツバをはきかけてやれ。そいつは敵だ。白豚だ。パニックになってなにが悪いのか。われわれの情動を表現できない「正確さ」に何の意味があるというのか。途方もない被害を出しつづける人災を前にして、なぜ言葉を失ってはいけないのか。恐れ、怯え、怒り、取り乱して泣き叫んではなぜいけないのか。東大の原子力研究者をみつけたら、言葉にならなくても言い、なんでもいい、とにかくおもいきり罵声をあびせかけてやれ。なんどでも、なんどでも自分自身の真実の言葉を、辞職するまで繰りかえせ。
いま呼びかける。脱原子力大学ゼネラルストライキ。ただ教えることを、ただ教えられることを拒否しよう。いったいなんのために。就職のため? 研究のため? 自分の専門にとじこもり、専門家に支配されるのはもうやめだ。専門性の行き着く先は、日々われわれがめにすることとなったあの愚鈍さであり、あのポンコツ加減なのだ。はじめから考えてはいけないことなんてなに一つない。はじめから言ってはいけないことなんてなに一つない。目のまえで原発が爆発している。恐ろしい。これが真実だ。真実は誰にでも考えられる。誰でもいやおうなく考えてしまう。慌てふためきパニックに陥るわれわれを嘲笑い、したり顔で落ち着くように説き伏せるものたち。薄汚いモラルで専門性に戻るように、消費者に、労働者に、学生に戻るように、持ち場に帰れと言い募るものたち。「がんばろう、日本」などど、情けなさもきわまるスローガンをもって、「復興」を騙るものたち。どうか邪魔をしないでほしい。真実を前にして、われわれは別のモラルとともにある。われわれは外国人である。すべての原子力発電所を即刻廃止へ。桜の花びらだけでなく放射能が飛びかうなかで「冷静に」授業なんてやっているひまはない。専門性へと引きこもろうとする大学を止め、偉大なるおしゃべりをはじめよう。全世界の原発の廃炉のために、資本主義の廃炉のために、知恵をひねりだそう。好き勝手でいい。大学で、街頭で表現しよう。原子力の動員なんてくそくらえ。逆らえ。慌てろ。真実から目をそらすな。
脱原子力大学ゼネラルストライキ。原子力化した大学を止めろ。脱原子力の知性を爆発させよう。
4月10日 脱原子力大学ゼネラルストライキ委員会
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