2011年5月29日日曜日

動物たちの霊とともに

友人からル・モンド紙のルポルタージュ記事の翻訳がとどいた。人々の蜂起は、かけがえのない動物たちの霊とともに。そして「不可能なものは生起するしかない」(マドリードのプエルタ・デル・ソル広場のグラフィティ)。

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2011年5月28日ル・モンド

絶望のなか、フクシマの畜産農家は農地や家畜と別れねばならない

「計画的避難区域」から5月31日にすべての住民がいなくなる。

葛尾村の松本しょういちの家は、いつ建てられたのか彼にもわからないほど古いものである。「見てください。この家はどんな地震にも耐えてきた。このまえの地震でもびくともしなかった。でも私たちは、目にはみえない危険のためにここから 離れないといけないんです。」すばらしい造りの家を撫でながら、70代の彼はそう言った。そこから25キロ離れたところに福島第1原発があり、村は「計画 的避難区域」に含まれている。住民は5月31日までに退去しなければならない。

彼と妻のしげこ、そして息子たちは、あるゴルフ場のそばの 宿泊施設に引っ越すことになっている。ゴルフ場のグリーンがこの谷の緑を離れねばならない彼らの苦しみを癒すことはない。しげこは呟く。「米を作ったり、 タバコを育てたり、牛の世話をしたりという、私たちがいつもやってきたことすべて、私たちが愛してきたことすべてが、これからはもうできなくなるんです。」

4頭いる乳牛は、全国でも有名なこの地方の特産種で、それぞれ名がついている。彼女たちを世話するために、しょういちは被曝するの を厭わなかった。放射能が谷に忍び込み、家族とほかの村民を避難所へと追いやっているときにも、彼はここに一人残ることにした。最初のうちは放射線が怖くて、できるだけ戸外を避け、畜舎と家も走って往復したという。しかし慣れてしまうとこんどは自分を村の最後の守りとみなし、近所の家の見回りや残された家畜の世話をした。

4月になると、少しずつ戻ってくる人も現れた。最初のうちは避難所と村を往復するだけだったが、そのうちに家に戻って暮らし始める人も現れた。誰にとっても、何週間も放置してやせ細ってしまった牛への思いは、放射能の恐怖より強かったのである。菅野ひろし41歳も牛たちをまるで家族の一員のように語る。彼は5月26日に14頭いる彼の牛たちの半分をトレーラーに乗せた。本宮の競売場で、原発の近隣の家畜のための特別競売会があるので、それにかけるのだ。

彼の牛たちは、検査で汚染されていないことが確認された。だからそれなりの価格が期待できる。本宮の市場で崩れるのは相場ではなく、畜産農家のほうである。しばしば高齢の彼らは、自分たちの生きる理由が彼らの最後の牛たちとともに消えうせるのを知ってしま う。菅野は自分の牛をすべて売ることはやめた。残した牛は、松本の牛と一緒に避難区域の外にある村の畜舎に預けることにした。

二人の畜産家はしかしながら、この解決が一時しのぎのものでしかないことを知っている。「なにしろ金がかかりすぎます。汚染していない飼料は遠くから運んでくるしかありませんから」、と菅野はいう。「それに国の補助金がもらえません。政府はとんでもないシステムを作ってくれた。5月31日まえに牛を送り出すわれわれは、牛たちを自主的に避難させたとみなされるんです。だから補償はでません。でもだれもが今のうちに送り出すことを選びました。というのも、31日を過ぎると、われわれもまた立ち入り禁止区域の内側にいた人たちと同じ状況に陥るからです。」

菅野はじっさい避難所で、葛尾村のなかでも3月13日から立ち入り禁止区域となっている地区の畜産家たちと一緒だったため、彼らから恐ろしい話を聞かされていた。家畜は放置して餓死させるか、屠殺する しかないという。役場もそうしろといっていると。「彼らの地区はここから5キロしか離れていないし、牛も私のより被曝しているわけではない。避難区域のこ のような線引きはまったく馬鹿げているんですよ」、と彼はいう。

こうして、原発から半径20キロ以内の立ち入り禁止は、放置されても生き延びた3400頭の乳牛、30000頭の豚、630000羽の鶏の巨大な屠殺場となっている。飼い主が連れ出せなかったペットも同じ運命をたどる。

避難所にいる人たちは、放射線防護服に身を包み、2時間だけという約束で、パニックのなか逃げ出した自宅に戻ることを許された。彼らのなかには、連れて逃げるのを許されなかった犬やネコを探すだけの目的で帰宅した人も多い。しかし、その死骸をみつけるかその不在を確かめた後、彼らは涙ながらに避難所に戻っている。そういう彼らの悲嘆の声が、福島の農家のはかりしれない悲嘆の声とひとつになって響いている。

ジェローム・フノグリオ

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