フクシマ関連のニュースが竜頭蛇尾である。フランスでは連日、福島第一原発を報じているが、ヘッドラインにおどっても報じる内容がない。「会見」は千年一日のごとし。内容が空疎である。2~3行で足りてしまう。そのため「基準値をこえた」不信がフランスの視聴者に蔓延している。メディアは何をやっているのだ、日本のストリートを映せ、ひとびとの恐れと不安の声をきかせろ、と。
だが、都知事選(石原軍団とたけし軍団とワタミ)に反原発者が立候補するわけでもなければ、都知事選の延期をもとめる運動もない。毒ガスマスクをつけた原子力キッズが暴動を起こすこともなければ、脱原発をもとめる労働者のゼネストすら起こらない。世界の落胆のため息がきこえる。「マジで?」と。世界はゆっくりと気づき始めている。そうか。ヒロシマとナガサキののちにフクシマの名を世界史にきざんだ日本国は、80年ほどまえ、国連から脱退し大殺戮機械と化したように、いま、世界史そのものから離脱しようとしているのだ、と。
2005年フランス暴動、2008年にはじまるギリシャ蜂起、2010年にはじまるアラブ革命。これらの出来事かがやかしいのは、そこに、世界史的要請にたいする応答があるからである。郊外の若者であれ、経済破綻した国家の人民であれ、トランスナショナルな兄弟姉妹であれ、世界史がふいにおとずれる瞬間がある。その瞬間、ひとびとは確信する。「ここで行為しなければ、全=世界がなめられてしまう」と。彼ら彼女らはそれゆえ車に火を放ち、メトロポリスをカオスモーズの炎に変え、素手で諸国家を転覆したのだ。世界史のおとずれを聞き取ること、それにしかるべく応答することは、全=世界にたいする友愛の約束の実行である。「おれたちのために、わたしたちのために、いま、お前たちがやれ」と人類がいっているのだ。この友愛の声、約束の履行をうながす声が、聞こえないというのか。彼ら彼女らが勇気をもって、死を賭して示してくれたかけがえのない約束に、背を向けるとでもいうのか。
『大学生詩を撒く』はこの人類の友愛の呼びかけを聴き取ることのできる、若いひとたちに呼びかけている。ぜひ世界に向けて、アクションを発信してほしい。うそにまみれた世界に絶望し、みずからに火を放ったチュニジアのブアジジのことを、想像してほしい。人類は原子力などいらないと思っている。洗脳された大人や老人だけが、それを必要だといっている。どうするんだ、このばかげた世界を?教師になにができる?親になにができる?くだらない先輩になにができる?企業に、政府に、国家に、国連に、なにができる?連中がなにかをやったところで、友愛のためじゃなく、金もうけのため、名声のためにやっているだけだ。きみたちの友愛の行為だけが、人類にとどき、人類の友愛の名にあたいするんだ。さあ、いっしょに原発を破壊しよう。
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