「文学というのは、要するに、本のことである。その他に新聞や雑誌に載ったものは文学の切れ端と見て構わなくて、その証拠に、文学の切れ端と呼べる程度にその中で読み甲斐があるものは後に一冊の本に纏められ、この方が一層何か読んだ感じがする。」
(吉田健一『文学の楽しみ』)
これは「編集論」や「書籍論」ではない。
現代では、「切れ端」こそ破壊力があるのではないか。
瞬間的にそのように考えて、吉田健一の時代といったようなことをぼんやり思ったけれども、
ここはそういうことが問題になっているのではなくて、
いわんや「すべからく本とはこういうものであるべき」等でもなくて、
本という物質と言葉という非物質がひとつになっているという
あたりまえといえばあたりまえだが稀な事態との邂逅、
「詩と真実の一致に遭遇することが文学である」ということが語られている、
と思われる。
これを、「すぐれた書き物は本になる」「本になるのがすぐれた書き物である」
と読みかえたり誤った要約をしたりして、
「本一般について」考えることはしたくない。
私がひとりの人間であるという一体性とおなじような意味で、
書いた本人にとてもよく似ている本に、であうことがある。
会ったこともないそのひとに、私はよびかける。
「ミゲル、ありがとう」とか、「田中先生大好きです」とか。
会ったこともないのに「似ている」と思うのはなぜかといえば、
書いてある言葉がそう告げているからとしかいいようがない。
不思議でうるわしい読書世界の開闢。薔薇の時間の流れる。
その1冊ごとのよろこびの有無以外に、本について考えるべきことは、
じつはさほどないのではないか。
た:たのもしいでしょ、社会をデザインしちゃう!
ち:ちんけな左翼は蹴散らすわよん♥♥でも最近、
つ:twitterに夢中であんまりかまってくれないの。
て:手にはいつも●フォン!
と:取的みたいなわたしの彼。
世界中のパソコンと携帯電話をたたきこわして
(多くの場合これらがあるためにクソを薔薇と錯視させられているから)、
●号館●●号室の前に特太うんこをして
(ちょっと与えとけば黙らせることができると思っていて頭にくるから)、
新宿駅の「顔認知広告」モニタを反吐まみれにして
(捕獲があからさまでうんざりするから)、
大好きなきみとふたり、遠くへ旅をしたい。
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