2010年7月8日木曜日

言葉がサッカーを























終わった…W杯が。私にとっての。
フォルランありがとう。ウルグアイチーム、愛してます。
いや まだ終わってなくて3位決定戦があるのだけれど、
なんというのか われわれもかれらも、もうくたびれちゃったから、
帰りたいなあとか思うし、
気持ちがのぼりつめて、そのあとに「じゃ、3位きめましょうか」
というのは、どうもかったるいし。
ドイツとやるの 疲れそうだし。
(追記。といいつつ 今日になったらもうたのしみになっちゃったのだが、
3決が地上波放送されないということを知り、驚愕。理解不能。)

サッカーはどうしてこんなに悲しく、よろこびに満ちているのだろう。
イビチャ・オシムの白ワイン片手の試合評をききながら、
クストリッツァの『マラドーナ』、
1986年のディエゴと2010年のスアレスの手、
ジズーの頭突きと時間が止まったみたいなターン、
ドノバンの鋭角ゴール、ギャンの涙と顔を覆う長い指、
審判に文句をいうファンボメルの憎たらしい顔、
髪を揺らしながらドリブルするガウーショの脚、
アディショナルタイムに同点弾を決め歓喜で横転するキーン、
松井君の湯気をたてる肩、などをおもいだしながら、
言葉によって変わっていくスポーツだ という友人の言葉をおもいだす。
そういえば、サッカーって茫漠としている。
どのようにもなるだろうし、どのようにもならないだろうし、
みんないいたいことがある。
指図したり、ギャアギャア喚いたり、選手と「コミュニケーションをとろう」としたり、 と
総じてズレちゃってるネロ的コーチがいたり、
マフィアFIFAとか某国サッカー協会が「人事」を牛耳ったり、
エミレーツ航空がミランの本田圭祐「獲得」を後押ししようとしたり、
アトレチコが「財政難」でたいへんだったり、ということを考えると、
サッカーはたちまち あてのない言表から離れ、交換の力域に悲しく沈んでしまう。

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 首長の語りは耳を傾けられる必要がほとんどなく、インディアン達はしばしば、首長に全く注意を払わない。権威者の言葉はネ・エン・ハンタンne eng hantan つまり、返答を期待しない厳しい言葉だ、とウルブ族の人々は言う。しかしこの厳しさは、政治制度の無力を補償するものでは全くない。権力の外在性に、言葉の孤立性が対応する。権力の言葉が、厳しく語られながら全く耳を傾けられないということの中に、権力の優しさが表われているのだ。(…)
 こうした政治領域の構成様式は、インディアン社会を防御するメカニスムとして理解することができる。文化は、文化を基礎づけるもの――すなわち交換――の優位を、正に、この基礎の否定を権力に照準することによって確認する。しかし、これらの文化が権力の力域においては、「記号」から交換価値を除去することによって、女性、財、語から交換すべき記号としての機能を奪うことにも注目しておかなければならない。その時、これらの要素は、交通(コミュニカシオン)の地平にあることをやめ、純粋な価値物として把握されることになる。言語の地位は、この記号という状態から価値の状態への転化を、独特の力強さで暗示している。すなわち、孤立の裡に発せられる首長の語り(パロール)は、記号というよりは価値物として語に接する詩人の言葉(パロール)を思わせるのだ。こうした交換の諸要素の脱‐記号化と価値化という二重の過程は、一体何を意味しうるのだろうか。それはおそらく、文化が、文化の諸価値に対してもつ愛着を示すのに留まらず、何人もが交換によって課される条件によって制限されることなく、享受することの充溢を表現しえた神話的時代への希望あるいは郷愁を表現しているのだ。
(P.クラストル/渡辺公三訳『国家に抗する社会』、第2章「交換と権力 インディアン首長制の哲学」)

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