2010年6月19日土曜日

スティグレールのラッダイト


 認知資本主義下において、人類が夜ごとに夢みるラッダイトとは何か? それはどのように花開くのだろうか?
 参考になるのは、技術と人間の関係を問うシチュアシオニスト哲学者スティグレールの考察である。スティグレールは技術礼讃の徒でも技術嫌悪の徒でもない。その哲学において賭けられているのは薔薇への生成であり、その生成はハイパーマテリエル的=非物質的ラッダイトと不可分だろう。こころみにその対談本『ハイパーマテリエルと心理権力のエコノミー』(千一夜社、2008年)の裏表紙からざっと引用しよう。

「われわれは今日、人類の技術的発展のはるかな歴史においてあらたな段階を生きている。ハイパーインダストリアル資本主義の段階である。19世紀以来、人間は、時間性の諸条件をたえず激変させてきた。つまり、個体化の諸条件をもたえまなく激変させてきたということである。
 産業化はおとろえるどころか継続中である。それはますます強化され、不可視のあらたな領野を投資=備給の対象とするようになった。たとえば、ナノストラクチャー、無意識の神経学的基礎、バイオテクノロジーであり、つまりはハイパーマテリエルの領野である。その領野において、質料はつねにすでにひとつの形相であり(たとえば量子の次元で)、形相はつねにすでにひとつの情報である(情報とはある物質的なものによって起こる質料の移行状態のことだ)。またその領野において、「非物質的なもの」はその本来のすがたで現れる。すなわち、精神を煙にまく一個の寓話として。
 ベルナール・スティグレールは、文化技術や認知技術、バイオ技術やナノ技術に賭されているもののあらたな定式化をこころみている。本書で述べられるように、それら技術は人類にとって危険がないわけではない。つまり人類の「非人間的ではないものへの生成」にとって危険がないわけではない。
 近い将来、人間は自分自身から立ち退きをせまられ、みずからの意識やリビドーから追い出されることになるのか? あるいは人間は、ハイパーマテリエルの諸テクノロジーとともに存続していくことができるのか?
 もし人間が包摂されるままになれば、もし人間が欲望を、心理権力を打ち立てようとしている強力な機械や網に捕獲されるままにしておけば、帰結のひとつとして、すでに趨勢として生じている資本主義の自壊がもたらされるかもしれない。
 ベルナール・スティグレールは技術嫌悪者ではない。われわれに注意を喚起するのに信頼に足る人物というだけである。」

 おそらく、われわれは不思議な政治に取りかかろうとしている。神話政治である。神話が考える、ということではない。神話が考える、装置が考える、機械が考える、言語が考える、クソが考える、云々。神話政治とはクソによる自動的思考と決別することだ。ある19世紀詩人は言った。犬に高価な香水を嗅がせても怒って吠えるだけである、クソのかたまりでも与えておけば、犬は尻尾をふってそれを嗅ぎ、よろこんで食べてしまうだろうと。世界のハイパーブルジョワは考えているに違いない、貧乏人の群れ(あるいはそうと自覚していない者)には定期的にクソでも投下しておけ、そうすれば、奴らはそれに夢中になって蜂起も暴動も起きないだろう、宮下公園にはナイキを、労働者にはアイパッドを、学生にはアルバイト装置とローン装置でもくれてやれ。経済学者には経済専門用語を、市民には選挙装置を、暇人にはフェイスブックとツイッターを。
 往々に信じられているように、19世紀初頭のラッダイト運動は機械嫌悪の暴発ではない。それは、クソを薔薇と言いくるめる輩に対する蜂起だったのである。クソはクソなのだ。われわれの不可視の信や情動はハイパーマテリエル的に包囲され、クソによる支配はハイパーマテリエル的に心理にまで及んでいるが、愚か者はそれでも憑かれたように言い続けるだろう、人間と技術は切り離せない、記号もまた技術である、ラッダイティストはありもしない原初のユートピアを夢見ていると。だが、クソがあくまでクソであるように、薔薇は薔薇であり、クソと薔薇は別物である。19世紀ラッダイティストの胸中をよぎり、20世紀初頭のゼネラルストライキ者、1970年代のサボタージュ労働者の胸中をよぎったもの。決然と資本主義装置を破壊する現在のギリシャのテッサロニキのアナキストの脳裏にあるもの。適当な連中は、それを野蛮だとかファシズムだとかアナクロニズムだとか言う。だがそこに潜在する薔薇に思いを馳せることなしに未来はない。プロレタリア神話政治、プロレタリア戦争機械を!「パンも薔薇もこの手に!」

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