2009年6月7日日曜日

TRAIN-TRAINまもなく脱線

2009年5月25日付の『ル・モンド』紙に掲載された記事「ジュリアン・クーパ『わたしの拘留延長はさもしい報復措置なのです』」(Julien Coupat : " La prolongation de ma détention est une petite vengeance ")からの訳出。本文はタルナック救援会のサイトhttp://www.soutien11novembre.org/spip.php?article490を参照されたい。クーパはこのインタヴュー記事が掲載された直後の28日に仮釈放されている。写真は3月19日のゼネストのさいに撮影(「日常のトレイン-トレイン(ルーチン)はもうすぐ脱線する(調子が狂う・頭がおかしくなる)」)。

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以下は、ジュリアン・クーパ氏がわれわれの質問にたいして筆記で回答したものである。2008年11月15日、クーパ氏はフランス国有鉄道SNCFのカテナリー架線にたいする破壊工作の容疑者として、コレーズ県タルナックおよびパリで拘束された8名とともに「テロリズム」のかどで起訴された。いまだ拘留されている唯一の人物である(文中の強調箇所はクーパ氏本人による)。

―― 拘留生活はいかがですか?

 ありがとう、とても順調ですよ。懸垂、ジョギング、そして読書です。

―― 逮捕時の状況を思い出していただけますか?

 覆面をして一分のすきもなく武装した若い集団がわれわれの家に押し入りました。彼らはわれわれを脅迫し、手錠をかけて連行したのですが、もちろん、家のなかにある物すべてを滅茶苦茶に破壊したうえでです。彼らはわれわれを高馬力のスポーツカーに押し込め、高速道路を時速170キロ以上の速度で連れ去りました。彼らが交わしていた会話のなかに、マリオン氏とかいう人物〔原注:対テロリスト部隊の元連隊長〕の名前がしばしば聞かれました。彼らはその人物にまつわる数々の武勇伝で盛り上がっていたようです。たとえば、退職パーティーの席で、同僚の一人に上機嫌で平手打ちを見舞った話であるとか。彼らはわれわれを4日ものあいだ「人民監獄prison du peuple」とでも言うべき留置所に監禁し、猥雑でもあれば馬鹿げてもいる質問の数々でわれわれをうんざりさせました。
 一連の作戦を指揮する立場にあるらしい人物の口からは、こうした馬鹿騒ぎにたいする釈明めいた言葉も聞かれました。つまり「サーヴィス(諜報部)」が間違っていたのだと。上層部であるその「サーヴィス」では、われわれを痛い目に合わせてやろうと手ぐすねを引いた連中が興奮して右往左往していたというのです。とにかくその日、われわれを拉致した連中はバタバタしていました。最近の三面記事によると、彼らは何のお咎めもなく現在ものさばっているみたいですね。

―― SNCFのカテナリー架線にたいするサボタージュは、ドイツにおいてその犯行声明が出されましたが、あなたはそれについてどうお考えですか?

 フランス警察は、われわれを逮捕した時点ですでにあるコミュニケを所持しており、そこには、警察がわれわれをその実行犯だと思いたがっているサボタージュについての犯行声明が記されていたほか、そのサボタージュと同時期にドイツで突発したもろもろの攻撃についても触れられていたのです。ただし、そのビラはフランス警察にとって数多くの難点がふくまれていました。まず、それはドイツで執筆され、ハノーヴァーで投函された。そしてライン川の彼方(ドイツ)の新聞社にのみ送付されたものだったのです。なかでも一番の難点というのは、そのビラに記されていた内容が、われわれについてのメディア的絵空事と一致していなかったという点です。その絵空事とはつまり、ファナティックな活動家の小集団が国家の中枢を攻撃すべく、カテナリー架線に3本の鉄の切れはしを引っ掛けたというものですが。そういうわけで、そのコミュニケについては、司法手続きにおいても嘘八百の公的メディアにおいても、あまり言及しないように配慮しているのでしょうね。
 たしかに、そのコミュニケに言及してしまえば、鉄道路線にたいするサボタージュはその謎めいたオーラの多くが失われてしまうことでしょう。つまりそのサボタージュは、危険性のきわめて高い放射性廃棄物を鉄道でドイツへと運送するという、そうした運送に抗議するためのものでしかなく、そのついでに、「経済危機」などというおおいなるペテンを告発するというものだったのです。そのコミュニケですが、最後の文章は、いわばとてもフランス国有鉄道的に締めくくられています。「列車運行の中断によりご迷惑をおかけした乗客のみなさま、なにとぞご理解とご協力をお願いします」と。それにしても、この「テロリスト」たちのなんという如才なさでしょうか!

―― あなたは「アナルコ・オトノーム勢力」や「ウルトラ・ゴーシュ」といった呼称に自分自身の姿を認めることができますか?

 概観めいた話からさせてください。現在のフランスにおいて、われわれは、ある歴史的凍結の終焉を迎えようとしています。その凍結時代を開始した行為としては、1945年にドゴール主義者たちとスターリン主義者たちとのあいだで交わされた協定がある。そこで目指されたのは、「内戦を避ける」という口実のもと、人民を武装解除してしまうことでした。この協定において用いられた諸表現を手短に取りまとめるとすれば、以下のようになるでしょう。つまり、右翼がそれまでの公然たるファシズム的色調を手放すかわり、左翼は真剣なあらゆる革命的パースペクティヴを放棄する、と。ところで、サルコジ一派は、ここ4年のあいだ、おのれが優勢であるという素振りを見せ、優勢であることを現に享受してもいるわけです。こうしたことは何に起因するかというと、それは、彼らがさきほどの協定を率先して一方的に解消してしまったという点にあるとともに、「なんの心理的葛藤もなくsans complexe」古くからの単純素朴な反動勢力と手を結んだという点にあるのです。つまり狂人や宗教、労働について反動的言辞をふりかざし、西欧やアフリカについて、フランス国家の歴史あるいはそのアイデンティティについて、反動的な言説を弄する連中ということですが。
 現在、戦争状態にあるこうした権力、あえて戦略的に思考し、世界を友・敵・無視してよい大多数に分割しようとしているこうした権力にたいして、左翼はまるで強直痙攣にでも見舞われたのように手も足も出せないままでいます。左翼はあまりに臆病で、評判もよくない。つまり、その信用をことごとく失っているので、左翼には現行権力を敵と見なす勇気すらなく、ほんのわずかな抵抗すら立てられないほどである。そして現行権力はといえば、左翼のなかから抜け目のない者たちをつぎつぎに引き抜いていくという訳です。ブザンスノ風の極左にかんして言えば、それが従来からの精彩を欠いた小集団状態を脱し、選挙でどれほどの票数を獲得しようとも、ブザンスノ的極左が描き出す展望はせいぜいのところ、ソ連的な灰色の風景をフォトショップでわずかに修正したぐらいのものでしかないでしょうし、それ以上のものは望めない。そうした極左はいずれ失望しかもたらさないでしょう。
 それゆえ、代表政治の領域において、現政権はなにも恐れることはないし、恐れるべき者もいない。現在、たとえ組合がかつてないほど流行っているにせよ、官僚主義に骨がらみの組合など政権をうるさがらせることもできない。組合はここ二年のあいだ、現政権とともに卑猥なバレーを踊りつづけているという始末です。こうしたフランスの状況において、サルコジたちの一味に対抗し、そのリアルな敵になることができる唯一の力とは何かといえば、それは路上であり、路上が古くから秘めている革命的傾向をおいてほかにはない。じっさい、2007年5月、大統領選出のさいの儀礼ともいうべき2度目の国民投票ののちに生じた数々の暴動において、たとえ一時であるにせよ示されたのは、路上のみが状況に見合った抵抗勢力としてみずからを誇示することができたということです。アンティル諸島においてであれ、最近たてつづけに起きている企業や大学の占拠においてであれ、路上こそが異質な言葉を響かせることができたのです。
 こうした大局的な分析は、警察当局が思い描く作戦劇においてもかなりはやくから重要なものとなっていたにちがいありません。なぜなら2007年6月の時点ですでに、フランス国家警察総合情報局は、体制寄りの(とりわけ『ル・モンド』紙の)ジャーナリストたちの筆をかりて、次のような記事を掲載しているからです。つまり、「アナルコ・オトノーム」たちによりあらゆる社会的生活が恐るべき危機に見舞われようとしている、その脅威を暴かねばならない、と。その記事でいきなり「アナルコ・オトノーム」たちの仕業とされたのは、新しい大統領の「選挙戦での勝利」にたいして挨拶代わりと言わんばかりに多くの都市で生起した、自発的な暴動の組織化というものでした。
 彼ら〔国家警察総合情報局〕が「アナルコ・オトノーム」なる寓話をでっち上げることで浮かび上がらせたのは脅威の姿でした。従順にも、内務省はその脅威の姿を突き止めようとやっきになり、それに少しばかり肉付けをほどこし、なんらかの顔を与えるために、メディアを総動員した狙い撃ちの一斉検挙に踏み切ったのです。ところで、あふれ出そうとするものを押しとどめることができなくなったとき、ひとはそれでも何らかの区分をあてがい、そこに押し込めようとするものです。たとえば「暴力分子casseurs」と呼ばれる区分のうちには、クレロワの労働者〔クレロワはオワーズ県の村、タイヤ製造会社コンチネンタル社工場閉鎖をうけ、抗議行動が激化〕、シテ〔低所得者用団地〕に暮らす少年、大学を封鎖する学生、反サミットデモの参加者たちがいまや雑然と入り乱れています。たしかにこの「暴力分子」のような区分は、いま流行りのマネージメントでもって社会を鎮圧するためには有効かもしれないし、数々の行為を犯罪化することもできる。だが、この区分は生存そのものを犯罪化することはできない。何が言いたいかというと、権力の新たな意図は、敵をそのものとして攻撃することのうちに存しているということです。「アナルコ・オトノーム」という弾圧のための新たなカテゴリー創出の使命とはこうしたものです。
 結局のところ、フランスにおいて「アナルコ・オトノーム」を自認する者が誰もいないということはほとんど重要ではないし、ウルトラ・ゴーシュが1920年代においてその栄光を極めた一つの政治的潮流であったということもさしたる重要性はない。そのウルトラ・ゴーシュが後々に生み出したものといえば、マルクス学の無害な著作の数々でしかありませんでした。もっとも、最近になって「ウルトラゴーシュ」という言葉が新たに脚光を浴びたことで、せっかちなジャーナリスト連中のなかには、昨年12月のギリシャの暴徒たちを安易にも「ウルトラゴーシュ」のカテゴリーのなかに括ってしまう者たちも出たほどですが、こうしたことが生じたのは、「ウルトラゴーシュ」が何を意味するのか、その言葉がかつて存在したかどうか、誰も知る者がいなかったという事実に多く起因するのです。
 世界規模かつフランス国内的な寡頭政治はいまや窮地に追いつめられている。そうした寡頭政治の挑発にたいして、そこからあふれ出そうとするもろもろの力は今後かならずや徹底したものとなっていくはずです。そうした事態の予防という点から見ても、「アナルコ・オトノーム」や「ウルトラゴーシュ」といったカテゴリーを使用することは警察にとって有益であり、その使用の是非についてはいずれ議論すらされなくなるでしょう。とはいえ、最終的に「アナルコ・オトノーム」という言葉と「ウルトラゴーシュ」という言葉のどちらがスペクタクルに利するものであるか予測することはできない。いずれにせよそうした言葉とともに、明らかに正当性のある反乱すら理解不可能なものとして片づけられてしまうのです。

―― 警察はあなたをテロリズムに傾斜しつつある集団のリーダーと見なしています。これについてどのように考えますか?

 それほど根拠にとぼしく、悲壮感のただよう主張をなすことができるのは、無へと傾斜しつつある体制であればこそですね。

―― あなたにとって、テロリズムという言葉は何を意味しますか?

 以下のことはどのように説明できるでしょうか。たとえば、フランス国土監視局DST〔内務省の国家警察総局に所属、国内のスパイ行為の取締りに当たる〕は、1995年に生じたフランスでの一連のテロのさい、それを指揮したのがアルジェリア情報公安局だということを知っていましたが、にもかかわらず、そのアルジェリア情報公安局は国際的テロ組織に分類されることはありませんでした。また、「テロリスト」が突如としてドイツ占領軍からの解放の英雄となったり、〔1962年に〕エビアン協定が締結されたことで「テロリスト」〔アルジェリア民族解放戦線〕が対等のパートナー国になったりすることを、さらに近年で言えば、アメリカ軍の戦略上の見解が急変するに合わせて、かつての「テロリスト」がイラク警察となり、「穏健なタリバン」となることを、どのように説明すればよいというのでしょうか。
 以上のようなことを説明することができるのは、ただ主権のみです。この世界に存在する主権こそがテロリストを名指すのです。この主権に与することを拒否する者ならば、あなたの質問に答える心づもりはないはずです。他方、主権のおこぼれに与ることを欲する者なら、あなたの質問にすぐさま答えるでしょう。良心の呵責に苦しむことのない者であれば、二人の元「テロリスト」の事例のなかに、少しばかりの教育的要素を見い出すのではないでしょうか。一人〔イツハク・ラビン〕はイスラエルの首相となり、もう一人〔ヤーセル・アラファト〕はパレスチナ自治政府の大統領となったのみならず、二人ともノーベル平和賞まで受賞したのですから。
 「テロリズム」という名は漠然としていて、定義することは明かに不可能です。だがこのことは、「テロリズム」を定義するフランスの法律がいまだ欠如しているなどということに起因しているのではありません。その名が曖昧なのは、そういう原理のもとで使用されているからであり、その原理についてならわれわれは明快に定義することができます。つまり反テロリズムです。この反テロリズムという原理が機能するための条件として、「テロリズム」という名は曖昧で定義できないものでなければならないのです。反テロリズムとは政府の技術であり、その起源は、反蜂起の技法として古くまでさかのぼります。直截的な言い方をさけるなら、それはいわば「心理学的」戦争の技法です。
 反テロリズムとは、その言葉が仄めかしていることとは逆に、テロリズムと闘うための手段ではなく、政治的に敵対関係にある者をテロリストとして積極的に生産するための方法なのです。この反テロリズムにおいて重要とされるのは、数々の挑発や威嚇、たび重なる潜入捜査や監視、メディア操作についての知識を総動員しつつ大量のプロパガンダを投入することをつうじて、「心理学的な働きかけ」をなすことであり、証拠および犯罪をでっちあげることです。さらには、司法と警察の区分を取り払うことにより、「転覆的な脅威」を失墜させることであり、内部の敵、つまり政治的な敵が恐怖を抱かせるものであるという情動を人口のなかに根付かせることでもあります。
 現代の戦争において本質的なのはそうした「心理・精神の闘争」であり、そこではいかなる〔精神的〕打撃も許されています。ただ、基本となる手口は不変であり、その手口とは敵を「個別化individuer」することにほかなりません。そうすることで、敵を人民の共通理性から切り離し、怪物の衣装をかぶせて人目にさらすのです。そして敵の名誉を傷つけ、おおっぴらに侮辱する。もっとも卑劣な者たちの憎しみを助長し、彼らがその敵に向けて唾を吐くようそそのかす。「法とは、政府の数多くの武器のうちの単なるひとつとして用いられなくてはならない。その場合、法は露骨なるプロパガンダの覆いというにすぎず、それが目的とするのは、人民のうちの好ましからぬ人物を厄介払いすることである。そうしたことが効率よくなされるためには、司法行為と戦争遂行の努力が結託していなければならないし、その結託は可能なかぎり密かになされなくてはならない」。この忠告はすでに1971年の時点で高級将校フランク・キットソン〔原注:イギリス軍元将官、反蜂起戦争の理論家〕がなしたものですが、実地を踏まえた発言というべきでしょう。
 ともあれ、異例は習慣にあらず。われわれのケースで言えば、反テロリズム劇は失敗でした。フランスにおいて、われわれが人びとをテロの恐怖で震え上がらせるなどという下地はいまだ出来上がっていなかったのです。わたしの拘留が長引き、その延長期間が「道理にかなっている」などと言われることは、〔逮捕劇に〕投入された資金や、失敗のために向こうが蒙った深刻な痛手を考慮するなら、十分理解されようというものです。そして11月11日以降、「サーヴィス」はメディアを利用して、考えうるかぎりのとっぴな悪行の数々をわれわれの仕業だと喧伝したり、われわれの仲間を一人残らず追跡したりしてきましたが、そのいささかいじましい執念深さについても同様に理解できます。こうした報復のロジックが、警察制度や判事たちのなさけない心理においてどれほど支配的であるか。このことを明かにしたという点から見て、ここ最近のいわゆる「ジュリアン・クーパの側近たち」の度重なる逮捕にも利点があると言えるかもしれませんね。
 言っておかなければなりませんが、今回の事件をめぐっては、アラン・ボエ〔原注:犯罪学者〕のように、それまで積み上げてきたみじめなキャリアを台無しにしかねない者も出てきたし、スクアルシニ氏〔原注:国内諜報局DCRI局長〕のごとく、旗揚げしたばかりの部局を危険にさらす者も現れた。さらに内務大臣ミシェル・アリオ=マリーのように、自分の信頼を失墜させかねない者も出てきました。とはいえ、そうした人間がこれまで信頼されたことなど一度もありはしなかったでしょうし、今後も決してないでしょうけれども。

―― あなたが生まれ育ったとても裕福な環境が、あなたを別の方向に進ませたのかもしれませんね……。

 「どの階級にも下層民は存在する」(ヘーゲル)。

―― どうしてタルナックに?

 タルナックに行ってみてください、そうすれば分かりますよ。それでも分からないとすれば、誰もそれを説明できないと思います。

―― あなたは自分を知識人と規定しますか、それとも哲学者?

 哲学は原初の叡智が失われてしまったことにたいする饒舌な哀悼から生まれました。プラトンはすでに、ヘラクレイトスの言葉を、過ぎ去った世界から差すかすかな光のようなものとして理解していました。知性というものが拡散した現代において、ひとは「知識人」の定義を知りません。さもなければ「知識人」のうちに、考える能力と生きる能力とを分けへだてる広い溝を見て取るだけです。じっさい、知識人などという資格はみじめなものです。ともあれ、誰のために自分を規定しなければならないというのでしょう?

―― あなたは『来るべき蜂起』の著者ですか?

 今回の訴訟手続きにおいてもっとも並外れているのは、予審の証拠資料や尋問資料として、一冊の書物がまるごと用いられたという点にあります。彼らはムキになってわれわれに次のようなことを言わせようとするのです。すなわち、われわれは書物『来るべき蜂起』に記されているとおりに生きていている、『来るべき蜂起』が勧めるやり方でデモに参加している、1917年10月のボルシェヴィキによるクーデタを記念するために鉄道路線を破壊している、と。なぜなら、そのクーデタについて書物で言及しているからだ、という訳です。その書物の編集者も反テロリスト班による呼び出しを喰らいました。
 フランス史上、一冊の書物が原因で権力が不安に陥るなどという事態が生じたのははるか昔のことでした。人びとはむしろ、左翼が執筆に専念するかぎり、左翼は革命を起こそうとはしないと考えることに慣れてしまったのです。それでも、時代は確実に変わる。実直な歴史は回帰するのです。
 われわれはテロリストとして起訴されましたが、その起訴が根拠としているのは、思想と生が一致していることにたいする疑いです。そして、共謀罪association de malfaiteursが根拠としているのは、思想と生の一致が、個人主義的ヒロイズムに属すのでなく、全員の意図に共通していることにたいする疑いなのです。こうしたことは、裏をかえせば次のようなことを意味しています。つまり、体制にたいする容赦なき批判文書にいくら署名したところで、誰もその者に嫌疑をかけたりしないのにたいし、そうした批判を断固として少しでも実行に移せば、その者にふりかかる不当な仕打ちはたいへん大きなものになるということです。あいにく、わたしは『来るべき蜂起』の著者ではありません。そして一連の事件はむしろ、著者というものが本質的に警察・ポリス的な機能をもつことを納得させるにいたったと言えるかもしれません。
 わたしは逆に『来るべき蜂起』の一読者です。つい先週、その書物を読み返してみて、なぜ為政者たちがあれほどヒステリックな敵意をむき出しにしてまで、その著者と推定される人物を追跡するのか、十分に納得することができました。この書物がスキャンダルであるのは、そこに記されていることが完全に、取り返しがつかないほどに正しいという点であり、そのことが日増しに明らかになりつつあるという点です。つまり、「経済危機」や「信頼低下」、「支配階級の大量切捨て」という事態の背後で、ひとつの文明の終焉、ひとつのパラダイムの自壊が明らかになりつつあるのです。それは政府・統治gouvernementというパラダイムであり、これまで、それは西欧における全てを決定するものでした。それは政治的秩序、宗教、企業組織などを決定するのみならず、諸存在の自分自身にたいする関係をも決定してきたのです。現在のあらゆる局面において、制御の喪失ともいうべき事態が大規模に生じており、いかなる警察的奇術もその進行を防ぎ止めることはできないでしょう。
 以上のことは明白な事実です。それゆえ、われわれを苦しめようと投獄し、小うるさく追尾する、司法の監視下におく、あるいは明晰なる記録〔『来るべき蜂起』のこと〕の著者であるかもしれないとの理由で、われわれがたがいに連絡し合うことを禁止する、このようなことをしても、その事実は消え去らない。もろもろの真実に固有の性質とは、それが述べられるやいなや、その発話者のものではなくなるからです。統治者たちよ、われわれを裁判にかけてもあなた方の利するところなどまったくない。その逆なのだ。

―― あなたはミシェル・フーコーの『監獄の誕生』をお読みになられていますが、その書物での分析はいまでも適切なものだと思われますか?

 監獄とはフランス社会における卑小な秘密です。それは、ごく一般的な社会的関係の核心なのであり、その余白・周辺ではありません。ここ監獄が縮図として端的に表しているもの、それは、もっともらしく喧伝されるような、野蛮な荒くれの集団ではなく、監獄の外の「ノーマル」と言われる生存をつらぬいている一連の規律なのです。看守、食堂、中庭でのサッカーの試合、時間割、対立、仲間意識、殴り合い、建物の醜悪さ。こうした監獄的なものは、たとえばフランス共和国のあの純真なる学校のなかにも看取することができますが、監獄に逗留したことのある者でなければ、ことの深刻さは十分に理解することはできないかもしれません。
 否定しようのないこうした観点から検討してみると、監獄とは、社会の落伍者たちの巣窟であるとは言えません。そうではなく、現行の社会こそが、失調した監獄制度を反映しているのです。監獄と社会はともに、分離を組織化し、マリファナ・テレビ・スポーツによって貧困・悲惨を経営している。さらに、徹底の度合いこそ違うものの、ポルノがあまねく支配してるという点でも同じです。結局のところ、監獄を取り巻いている高い塀は、以下のようなきわめて自明の事実を隠しているにすぎません。つまり、有刺鉄線のせいでひとは監獄の内側と外側に分離されているものの、その内側であれ外側であれ、辺りをうろついているのはあらゆる点で似通った生であり魂である、ということです。
 監獄「内部の」記録や証言を熱心に追い求め、監獄の秘密を暴こうなどとすれば、監獄がそもそも何であるかという秘密を今まで以上に覆い隠してしまうことになる。その秘密とはすなわち、あなた方の隷属状態にほかなりません。あなた方は自由だと見なされいるが、にもかかわらず、目に見えない監獄の脅威はあなた方の一挙手一投足にまでのしかかっているのです。
 フランス牢獄の悲惨、さらにはそこで収監者たちが次々と自殺に追い込まれているという状況にたいする義憤の数々。あるいは、監獄内に監視カメラを設置しつつ、それが収監者の保全のためであり、「刑罰の意味」の追求に熱心な刑務所長の身の安全のためでもあると言いつのる、刑務行政の馬鹿げた対抗プロパガンダ。こうした議論、すなわち投獄・拘置の残酷さや、拘留環境の改善の必要性をめぐるあらゆる議論というのは、監獄の誕生と同じだけの歴史を有しています。そして、こうした議論自体が監獄を効果的なものにしている。なぜならそうした議論は、監獄という存在が抱かせる恐怖心を、監獄の社会的役割が「文明化された」処罰を行なうことだとする偽善的な考え方と結びつけてしまうからです。監獄とは、スパイ行為と侮辱と肉体的・精神的荒廃とからなる小さなシステムであり、フランス国家はヨーロッパの他のいかなる国よりも狂信的に、そうしたシステムを収監者に向けて行使している。とはいえ、こうした現状はスキャンダルとすら言えないものです。なぜならフランス国家は、郊外において、そのツケを百倍にして毎日支払わなければならないのですから。それでも、そうした状況がたんなる始まりにすぎないことは明白です。下層民にとって復讐とは精神衛生のための行為なのです。
 しかしながら、司法=監獄システムの欺瞞のうち、そのもっとも驚くべき欺瞞とは、そのシステムがたんに非合法主義を運営するものでしかないにもかかわらず、犯罪者を処罰するための存在だと言い張る点にあります。会社社長、県会議長、警察官なら誰しも身に覚えがあるように――つまりトータル社の社長やオー=ド=セーヌ県会議長にかぎらないということですが――、自分の職務をまっとうするためには、非合法な手段を用いることが必要とされる。今日、法の混沌はたいへんなものであり、法はむしろ遵守しすぎないほうがよいと考えられているほどです。麻薬もまた、取り締まるのではなく、その密売を調整したほうがよいと考えられている。なぜなら、それを取り締まるようなことをすれば、社会的にも政治的にも自殺行為となってしまうでしょうから。
 それゆえ司法がフィクションとして維持している合法と非合法の分割、無実の人間と犯罪者という分割は正しくありません。実際の分割は、訴えたほうが好都合な犯罪者と、放置しておく犯罪者とのあいだに引かれているのであり、こうした分割は社会全般の治安が望むものなのです。無実なる人びとという種族はとうの昔に途絶えてしまった。そして刑罰とは、裁判所があなた方に科すもののうちに存するのではない。裁判そのものが刑罰なのです。それゆえ、メディアが判で押したように書き立てていることとはちがい、わたしやわたしの仲間にとって問題なのは「無実を叫び立てる」ことではありません。われわれにとって重要なのは、一連の忌まわしい訴訟が形成しているむやみな政治的攻撃を潰走させてやることなのです。以上のことが、サンテ刑務所に投獄されて以来、わたしが『監獄の誕生』を読み返して到達したいくつかの結論です。ここ20年のあいだ、フーコーが残した仕事をめぐってフーコー学者たちがなしてきたことを考えるなら、ときには彼らをこの寄宿舎に送り込んだ方がよいと提案しても、決して言いすぎにはならないでしょう。

―― 自分の身に起こったことをどのように分析しますか?

 いいですか、間違ってはいけないのは、わたしやわたしの仲間に起きていることは、あなた方の身にも起こるのです。そもそもここに権力による最初の瞞着があるのです。すなわち、9名は「テロリズムの企てにかかわる犯罪者たちとの共謀罪」という廉で起訴されたのだから、その重大な起訴の対象となっている事がらについて何かしら身に覚えがあるはずだ、と。むろん「タルナック事件」など存在しないし、「クーパ事件」あるいは「アザン事件」〔原注:『来るべき蜂起』の編集者〕も存在しません。存在しているのは、あらゆる点においてぐらつきを見せている寡頭体制です。そして、いかなる権力も本当の脅威にさらされると凶暴になるように、この寡頭体制も凶暴性をむき出しにしつつある。国王のまなざしが民衆のなかに憎しみと軽蔑しか呼び覚まさなくなるとき、国王が頼りにすることができるのは恐怖しかないのです。
 われわれは現在、歴史的かつ形而上学的なひとつの岐路の前にいます。一方の路は、政府・統治のパラダイムから住まうことのパラダイムへと移行するというものですが、そのためには、残酷ではあれ体制を転覆することもできるような反乱を起こすことを代償としなくてはなりません。もう一方の路は、惑星規模で維持されているこの破滅的状態をそのまま野放しにしておくというものです。そこでは、「心理的葛藤から解放された」マネージメントが冷然と支配するなか、ひとにぎりの帝国的エリート市民と、すべての局面で周縁に追いやられた大勢の下層民が共存する。すなわち、そこでは文字どおりの戦争が行なわれるのです。カタストロフから利益を得る連中と、生について、骸骨よりはましなものとしか考えられない者たちのあいだで繰り広げられる戦争。というのも、かつて支配階級がみずから進んで自殺したことなど一度たりともなかったのですから。
 反乱にはもろもろの条件がありますが、反乱の大義causeというものは存在しません。国家アイデンティティ省なるものが創設され、コンチネンタル社のごとき大量解雇が続出し、サンパピエ〔不法移民〕たちの一斉検挙がおこなわれる。郊外では少年たちが警察官に殺され、大学を占拠しつづける学生たちは学位を授与しないと脅される。いったい、こうした状態がどれほど続けば、この体制、民主主義に見せかけた国民投票によって権力の座についたこの体制が、存続すべきいかなる権利も有しておらず、たんに打倒すべきものだということを決定してくれるというのでしょうか。問題は感性なのです。
 隷属とは耐えがたいものですが、隷属を無限に耐えることもできます。なぜならそれは感性の問題であり、感性とは直接的・無媒介的に政治的だからです(感性が政治的というのは、感性が「誰に投票しよう?」と自問するからではなく、「わたしの生存はそれと両立するのか」と自問するからです)。他方、権力の側からいえば、そこで重要なのは無感覚ということであり、権力はその無感覚な状態に対応すべく、ますます大量の娯楽・恐怖・愚かな言動を投与しつづけている。そうした感覚麻痺が解かれたとき、反乱が生じるだけの理由raisonsにこと欠かないこの体制は、われわれにそうした反乱を思いとどまらせようと、狙いをさだめ、さもしい恐怖政治に出たという訳です。
 しかしながら、わたしやわたしの仲間は、恐怖政治が任意に狙いを定めるひとつの対象というにすぎません。われわれは他の多くの人びと、多くの「若者たち」、多くの「集団」と同じく、崩壊しつつある世界から離脱しようとしているという疑いをかけられているのです。騒がれていることのうち、この点だけは間違っていません。詐欺師や実業家、金融資本家、セレブ娘たちといった連中は、神経弛緩薬を投与されたマザランとでも言うべき人物を取り巻き、ルイ・ナポレオンのディズニー版とでも言えそうな人物のご機嫌をうかがい、フーシェ気取りの人物を賛美している。たとえそうした連中が目下のところ国を掌握しているにせよ、連中には最低限必要な弁証法的感覚すら欠けている。やつらは全てを管理しようとするそのたびに、一歩ずつ敗北に近づいているのだし、新たな「勝利」を自賛するそのたびに、連中が打ち負かされた姿を見てみたいという欲望がしだいに広がっていく。自らの権威を確固たるものにしようと策動すればするほど、その権威はおぞましいものに成り果てる。つまり、すばらしい状況なのです。やる気をなくすときではないのですよ。

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