
近年の『麦の穂をゆらす風』をはじめとするケン・ローチの映画作品が、幾度となく歴史的なアナキズムをフィクションとして描いてきたように、今回もまた純然たるアナキスト映画である。ただし、『Looking for Eric』で描かれているアナキズムは、監督が公然と支持するオリヴィエ・ブザンスノらの「新たなる反資本主義党NPA」のアナキズムというよりも(主人公はイギリスの郵便局員である)、むしろオルターグローバリゼーション・シーンで活躍するブラック・ブロックや『来るべき蜂起』(2007年)におけるアナキズムと親和的である(同書は今秋彩流社より邦訳刊行予定)。同時に、『Looking for Eric』は過激なまでにアナルコ・サンディカリスム的である。つまりケン・ローチの想像力は、これまでおもな主題だったスペイン内乱時のアナキズムから歴史的に遡行し、19世紀末、20世紀初頭のアナルコ・サンディカリスムをみずみずしく蘇らせるとともに、現在のアナキズムを、その可能性を大胆にしめすのである。ストーリーは伏せておこう。一言だけ。われわれは顔を覆い、群集としての力を見せつける。それがデモス(人の集団)というものだ。この映画において奇蹟は描かれない、だがデモスの蜂起が起こる。日本では公開未定。
昨日28日、『来るべき蜂起』(「不可視の委員会」)の執筆にかかわったとされ、フランス高速鉄道TGVのサボタージュの主犯とみなされ6ヶ月間にわたり投獄されていたジュリアン・クーパが保釈された。結局、この匿名で書かれた書物は、犯行の証拠にかわるものとしてなかば公然と名指されてきたにもかかわらず、司法・警察によってその著者が断定されることはなかった。匿名であることはいかがわしい。匿名の書物が蜂起について、コミューンについて、内乱について語っていたとすれば、なおさらいかがわしい。だがこうしたいかがわしさは、すべての文学が目指すものではないだろうか。むろん、書物が断罪の対象されることは、現代先進諸国においてはとんでもない事態だ。だが、ヴォルテールやボードレールの例をあげるまでもなく、歴史上、そうしたことは幾度となく繰り返されてきた。周知のとおり、ヴォルテールの著書はフランス革命において結晶し、ボードレールの詩集は48年2月革命のテンションをそのままパリ・コミューンへとつなぐものだった。『来るべき蜂起』。蜂起は結晶しつつあるのかもしれない。書物は危険たりうる。すばらしい兆候だろう。