

左はサルコジ大統領が大統領選のさいに「学校でこんなもの読んで何の意味があるんだ」と語った17世紀古典『クレーヴの奥方』、右は国家権力から「テロリストのマニフェスト」と目され、その著者があらぬ嫌疑から5ヵ月間も投獄されている『蜂起到来』。現在、フランスではこの2冊がベストセラーであり、これらが隣り合わせの状態で平積みにされている書店も少なくない。『クレーヴの奥方』が読まれているのは、人文学の価値を認めようとしないサルコジらネオリベラル政権にたいする反発からだろうし、『蜂起到来』が読まれているのは、街頭政治そのものを処罰の対象にしようとする監獄国家体制にたいする憤りからだろう。だが重要なのは、この2冊が同時に読まれているということである。
『クレーヴの奥方』が『蜂起到来』とともに読まれているという事態が意味しているのは、これまで幾度となく言われてきたような「人文学の危機」にたいする「教養の復権」だとか、「弱くてしなやかな人文学」だとか、そういうことでは一切ない。押さえておきたいのは、運動をすすめる大学人や学生、ストライキ者たちが、17世紀文学を読むように極左政治哲学書を読み、来るべき蜂起について思いをめぐらせるために『クレーヴの奥方』を読んでいるという点である。こうした読みは、人文学をめぐって無意味にささやかれる愚痴をふきとばしてくれる新鮮さがある。フィクションをつうじて、運動はたんなる抵抗をこえた自律的強度を獲得していくのだし、フィクションを編み出すこと自体、発明=運動である。たとえば、ストライキ中止を呼びかける学長を学長室に監禁してしまうこと。こうした新たな行為に踏み切ることのできる想像力こそ文学の領分だろう。
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