「ヨーロッパの大学」という授業に出ている。
教授は「21世紀の大学は、資本に媚びる妾のようにではなく、
資本の首を刈ってその首と結婚するサロメ=マリアのようにあるべき」
と告げる、凶悪なるマラルメ研究者O先生である。
前半は講義で、ヨーロッパにおける「大学」の誕生から、
モダンの大学の発展と自己崩壊、
そしてポストモダン的状況を経て現在にいたる大学の(そして研究と教育の)
変容を精確に知る(それによって「大学」の概念と実体の更新=再興をはかる)
という内容である。
(後半は学生による発表がおこなわれる予定。)
大学史にかんする講義は
Christophe Charle et Jacques Verger, Histoire des universités(邦訳近刊)がベース。
「大学」をめぐる状況を考えるためのテクストは、
リオタール『ポストモダンの条件』、
デリダ『条件なき大学』(考えてみればこの2冊は、タイトルが問答になってるんだなあ)、
レディングス『廃墟の中の大学』、ブルデュー『パスカル的瞑想』。
先日の授業では、リオタールの考察にもとづいた、
「研究と教育のポストモダン的状況」についてのお話であった。
一言でいえば、
ポストモダン的状況のもと、「研究」と「教育」は 資本に絡まれて
調査や検証の「技術」、競争に勝ち残る人材を養成する「技術」
を云々するものになってしまい、
正当・不正、真・偽、美などをめぐる判断基準を失い、ぐさぐさになっている
ということであった。
講義をきいているといつも、O先生が荒野に立っているような気がする(さすがsymboliste!)。
ぱさぱさに枯れた平原で彼が語る「大学の再興」という言葉には、
リオタールの弔鐘よりも デリダの公言の響きがあって、
絶望のなかでしか生まれない希望があるということをわれわれに告げる。
O先生は 2年のサバティカルを経てこの4月にわれわれのもとに帰ってきた。
ある大学人が、「おれ、Oさんがいなくて2年もよくがんばったよなあ!」と言っていたけど、本当にそう思う。
良きものは何度でも回帰し、われわれに希望をあたえる。
ジルもジャックも居なくなってしまったけれど、おれたちにはO先生がいます。
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