2010年12月10日金曜日

大学という風景


シネマテークで若松孝二特集が組まれている。その数およそ40本。まだ数えるほどしか観ていないが、若松映画に夢中になってしまった。若松孝二とは、しばしば考えられているように「転覆」の作家ではない。正しい映像表現をめざす既成の美学に対し、土臭いエロスやテロルを対置させるという、そうした安易なアンチの作家ではないのである。そうではない。じつは若松孝二とは、ゴダール的な「たんなるイメージ」の作家だ。ここでは、かつての理論化にならってそうしたイメージを「風景」と呼ぼう。「風景」とは、われわれの前に立ちはだかる権力の受肉した姿そのものであると同時に、予兆としての来たるべき蜂起を潜在的にみなぎらせているもの、のことだ。どこにでもある似たような風景、しかしそこには、権力のイメージの現前と蜂起のイメージの予兆という弁証法が静止状態のまま焼きつけられているのである。難しいことではない。そうした「風景」を見ていると、なにかとっても悪いことがしたくなるのだ。若松映画にはそのような「風景」がちりばめられているのであり、たとえば『性賊/セックス・ジャック』(1970)はそのような「風景」を堂々と提示しえた作品として傑作だろう。

イタリアからイギリスまで、ヨーロッパを大学闘争の突風が吹き抜けている。イタリアでは大学予算のカットに対して、イギリスは学費値上げ(これまでの3倍、およそ年間100万円)に対して。イタリアとイギリスの学生らが合同で「ヨーロピアン・コーリングス」という声明を出しているので、是非とも読んでほしい。ところで、わたしたちはもう「ヨーロッパの大学」とか「ヨーロッパの波」とか、ヨーロッパ人の言う「ヨーロッパ」に若干うんざりしている。ヨーロッパと言うな、はっきり世界と言えよ。なぜなら大学とは一義的な存在であり、ヨーロッパの大学とかアジアの大学であるまえに、すべての大学は世界の大学だからである。イタリアやイギリスで大学蜂起の主体化が生じているとすれば、それはヨーロッパの大学という狭いフレームに依存してのことではなく、大学の世界性を起点としてのことなのだ。そしてそうであるかぎり、日本の大学でも不可視の蜂起は着実に進行しているのである。若松孝二らが「風景」を世界同時的なものとして見出し、そう読み変えていったように、われわれもまた、大学を世界として、世界同時的なものとしてまなざす必要がある。どこにでもある風景としての大学、そこには権力の現前と蜂起の予兆の弁証法が静止状態のままうちふるえているのだ。Fuck Fees!
































0 件のコメント: