2012年2月7日火曜日

むざんなむくろとなった無為な建屋を

むざんなむくろとなった無為な建屋を、
いくら棺で覆っても毒の塵は消えず、
なにかのはずみで(あるいはなにもなくとも)まきちらされる。
この最新の公害があらゆるものの一蓮托生の網からうみだされたことからみて、
よりよい建屋、よりよい圧力・格納容器、よりよい原子力、よりよいエネシフはもとより、
よりよいイシハラ、よりよいハシモト、
よりよい正力松太郎、よりよい読売巨人軍、
よりよいAERA、よりよい報道ステーション、よりよいNHK、よりよい電通、 よりよいTSUTAYA、
よりよい東大、よりよい日能研、よりよい四谷大塚、よりよいTOEIC、
よりよいみずほ、よりよい三菱東京UFJ、よりよい三井住友、よりよいゴールドマンサックス、
よりよい東電、よりよい日立、よりよい三菱、よりよい東芝、
よりよいDeNA、よりよいMS、よりよいアップル、
よりよいユニクロ、よりよいイオン、よりよいスタバ、 よりよいトヨタ、
よりよい日本、
よりよい資本主義……
がありえないことはもはやだれの目にも明らかである。
同様によりよい社会もありえないことを悟るのにためらう理由はなにもない。
社会とは叛乱を封じこめるための建屋であり、
材質や施工の強度をどれほど上げようとも、
ほころびるたびにいかなる修正をほどこそうとも、
目に見えない塵は巻きあがり、拡散するのだから。
滅亡のオーメンを放射しつづけるふくいちを筆頭に、
家賃、賃労働、監視カメラ、家電、マイカー、マイホーム、ランキング、議会、選挙……
われわれは社会という虚構の書き割りを任じる各種の装置にとりかこまれている。
あなたが社会を構成するひとりであり、
あなたの思いやおこないが社会に反映すると語りかけるものがあるなら、
それもみな装置である。
だが、装置は建屋の部品にすぎない。
みおろしたりおおいかぶさってくるものにたいする反撥と、
騒乱の歓喜への欲望は、
社会よりもはるかに前からわれわれのもっともしたしい感情であったし(泣き叫ぶこども!)、
社会という覆いをもって隠すことはできても消すことはできない(泣き叫ぶおとな!)。
歌い、踊り、落書き、わめき、吐き、暴れ、群れても、
そのたびに解釈の手綱をにぎられ、
おどされ、蹴られ、なだめすかされ、
社会という名の建屋にとじこめられてきた。
(いまやただ街路に立ちつくしているだけで反社会の嫌疑をかけられる!)
おなじことのくりかえしに倦み、
毒に噎せ、借財の恐怖においたてられ、生存の苦いスープをすすってきた。
しかしそれでも、騒乱の記憶はいちども消えなかったし、
恋人の頬は上気し、友のてのひらには汗がにじみ、
ギターの弦ははじけ、靴はすりきれ、
解釈は凶悪に世界を読みとり、
フクシマの以前も以後も不穏な塵はいたるところに舞っている。
今夜も爆発の毒を抱いて眠ろう、
われわれにおおいかぶさろうとするもの、
目に見えない紐と網でわれわれをくくろうとするものにあらがい、
騒乱の朝の光に身を射られて、
歓喜の歌をくちずさむまでの短い時間を。

2012年2月2日木曜日

再開 グラフィティ考



グラフィティライターを取材したドキュメンタリー番組をみた。ライターは語る。いつもの風景に自分が残したグラフィティが忽然とあらわれる翌朝のひととき、それが最高なのだと。われわれはこのエピソードから再開しよう。
近代の時空を切り裂いた1789年、1848年、1871年、1917年、1968年とはしるしの氾濫である。それらはさまざまな革命体制、さまざまなかたちの直接民主主義を生み出した。革命の現前は革命の号令がもたらすのではない。革命に先行するのはしるしの脱領土化であり、それがひとを蜂起へと浮上させるのである。
たとえばときおり、クジラの群れが浜辺に打ち上げられることがある。座礁クジラ、それは無力の隠喩のクリシェではない。しるしを書く=読む生き物どもの力能のアレゴリーである。ガイガーカウンターの数値から地震雲にいたるまで、壁であれ本であれ恋人の表情であれ、ひとはしるしの海をさまよう。水面へと潜行せよ、深海へと浮上せよとしるしはいう。

2012年1月26日木曜日

静かな学生

「フクシマ以降の大学」をめぐる日仏シンポジウムが2月24~25日(東京日仏会館)、27日(神戸大学大学院人文学研究科・文学部)に予定されている。プログラムは先の投稿にくわしい。発表者のひとりである岡山茂氏がこのシンポジウムによせたうつくしい文章を掲載しておく。学生は静かである。その静かさを信じよう。


***

フクシマ以降の大学

1 教育環境

「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」というけれども、教員も学生を川の流れように眺めながら年老いてゆく存在である。教員が教えたいと思っていることが学生の学びたいことであるとは限らない。しかし教える者と学ぶ者がそれぞれの知的冒険のなかで出会うことはないわけではない。そのような機会を数多くもたらす「教育環境」とはどのようなものか、それはどのような大学により濃密にあるといえるのかを、ここでは考えてみることにする。

19世紀フランスの詩人マラルメがみたオックスフォード大学やケンブリッジ大学には、研究と勉学のためのこの上ない環境が保たれていた。中世以来の美しいキャンパスを学生と教員が悠然と散歩するのを眺めながら、詩人はこのような大学を存続させているイギリスという国に驚いている。そこには大革命で大学を廃止したフランスとは違うたぐいの「社会的寛容」、あるいは「乱されることのない伝統的な土地」があると彼は思った。霧に包まれたロンドンや石炭の塵にまみれた地方都市に暮らす人々は、これら二つの花のような「思考のための都市」に生きる者たちの存在を、黙って許していたのである。

フラ ンスはそういう「寛容」の精神を大革命のときにかなぐり捨て、ヨーロッパの大地をもナポレオンの遠征によって踏み荒らしてしまった。プロイセンはナポレオンへの抵抗のなかでベルリン大学を創設し、近代国家としてのドイツの礎とするだろう。フランスは19世紀末に大学を復活させるが、両国はその後に第一次世界大戦の塹壕戦という、文字どおりの泥沼のなかで膨大な数の若者を死なせてしまうことになる。そこに欠けていたのはもしかしたら、中世の大学を保ち続けたイギリスの「社会的寛容」なのかもしれない。

しかしイギリスにおいてもそのような精神は、サッチャーによる改革のとき以来失われてしまったようにみえる。イギリスはいまやオックスブリッジも含めて、世界でもっとも厳しい「教員評価」が行なわれる国である。イギリスの古い伝統を引き継ぐアメリカのリベラルアーツ・カレッジにしても、その自由な教育環境は、アメリカの人々の寛容さというより、彼らへの見えない抑圧によってかろうじて保たれているにすぎない。ウォール街を占拠した群集は、アメリカでは1パーセントの富裕層が99パーセントの民衆を支配していると叫んでいる。そしてリベラルアーツ・カレッジはたいてい富裕層の子どものためのものなのである。いまや世界のいたるところで「怒れる者たち」の氾濫=反乱が起きている。その「怒り」は端的に、大学が「禁域」として一握りの人々にのみ許されてあることへの抗議なのである。

かつて日本には、大学がすべての者に開かれると思われた時代があった。戦後に全国の県に一つずつ国立大学が置かれ、旧帝大や私立大学まで含めてすべての大学が一元化されたときである。戦前において旧制高校から帝国大学へと進んだごく少数のエリートにのみ許されていた特権が、すべての学生にある程度まで許されるようになると人々はそのときに信じた。自分の子を「大学」に進学させるということが廃墟から立ち上がろうとする庶民の心の支えとなり、そのことが大学の急激な成長をもたらし、さらにそのことが日本の「奇蹟の復興」をも可能にした。しかし残念ながら、大学の大衆化がこのようにして進むなか、入試のシステムによって旧帝大系大学の支配的な地位はふたたび揺るぎないものとなり、私立大学の学費というバリアも少しずつ高くなってしまった。政府は大学を増やして学びたい学生すべてを受け入れるより、新幹線や高速道路や原発の建設を優先してしまった。

1991年の大学設置基準の大綱化と 2004年の国立大学法人化は、さらに「不寛容」な政策であったといえる。これらの改革は戦後に大衆が大学に対していだいた夢を、幻想として打ち砕くようなものでしかなかった。法人化によって大学は「自治」をえたが、「競争的環境」のなかでの不平等な競争は大学そのものを「勝ち組」と「負け組」に分けた。「教育環境」においてもとより恵まれていた東大をはじめとする旧帝大系の大学はその環境をさらによいものとし、その他の大学はむしろそれを劣化させた。校舎はきれいになったが教員が減らされて、第二外国語を学べないような大学や学部はいまやざらである。

それではどうして日本の若者は静かなのだろうか。彼らは怒っていないわけはない。原発事故による放射能にもっとも敏感であらねばならないのは彼らである。 また彼らは、日本の大学がだれにでも開かれ、なおかつその「教育環境」が申し分ないと思っているわけでもない。彼らはだまされないくらいには啓蒙されている。国が不寛容ならその国の民衆は啓蒙されていなければならない。福島原発事故でエリートや専門家への信頼が揺らぎ、そのために大学への信憑さえ薄らいでいるいま、日本の若者はそのことに気づいている。さもなければ大学は、ナチスの時代のドイツや戦前の日本のように、民衆の迷妄を煽るだけのエリートを輩出する機関となってしまっている。

ということは、彼らこそ「社会的寛容」を知るいまでは世界にも稀な「民衆」なのかもしれない。たしかに彼らは、「教育環境」をよくしようと思っても自分たちではどうにもならない、既存のシステムに組み込まれていくしかない、と諦めているのかもしれない。 しかしそういう彼らにも、かつての民衆の記憶はDNAとして刻み込まれている。大学とは、国家にとって有用な人材を育成するための場所ではない、個人がよりよい就職先を求めて競いあう場所でもない、それは知的に解放された者がさまよい、出会う場所である、ということを彼らは心の底で知っている。だからこそ彼らは静かなままでいられる。

彼らをこれ以上怒らせてはならないだろう。その「寛容」が世界を救うからである。そのためにはどうすればよいかを考えることが、「フクシマ以降の大学」を考えるということだ。

岡山茂

フクシマ以降の大学

GKB47(虚構新聞によればデビュー曲は「ポニーテールと練炭」「屋上からフライングゲット)の「B」はbasicのBだそうだ。どうせならBasic Income を宣言してほしいものだ。政府なぞがうんこなことはとうの昔にわかっているがこれもあの民間ブタ(ブタさんごめん)のまきちらす糞害だ、どっかへ消えてくれ。これだから社会はだめだというのだ。大学生は糞ではなく詩を撒く。もちろんうんこを撒いても、あるいはネオ卵投会を言挙げし千葉産の卵を気に食わないすべてのものに叩きつけてもよい。吉田健一がすでに気づいていたように(「ヨオロッパの文學での無頼」)、ヴィヨンは自分から自由も救いも奪った社会から放逐されたがゆえに自由と救いを得た。われわれも社会を捨て、書へと向かおう。

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(以下転載)
アレゼール日本からのお知らせ

今年創立20周年を迎えるフランスのアレゼール(高等教育と研究の現在を考える会)のメンバー、クリストフ・シャルル、シャルル・スリエ、フレデリック・ネイラが来日し、アレゼール日本とともに以下のイヴェントに参加します。ぜひご来聴ください(いずれも入場無料、事前連絡不要、通訳つき)。

1 フクシマ以降の大学 日仏大学人の対話の試み
日時:2012年02月24日(金)14:00-18:00
場所:日仏会館1階ホール(東京、恵比寿)
司会:隠岐さや香(広島大学)
発表: クリストフ・シャルル(パリ第1大学)、中村征樹(大阪大学)、フレデリック・ネイラ(リモージュ大学)、岡山茂(早稲田大学)、シャルル・スリエ(パリ第8大学)、白石嘉治(上智大学)

2 クリストフ・シャルル講演会 「モデルニテ」 ――ヨーロッパで生まれた新しい時間の表象
講演者:クリストフ・シャルル(パリ第1大学 歴史学)
日時:2012年02月25日(土)15:00-18:00
場所:日仏会館1階ホール

3 日仏大学改革の比較研究
日時:2012年02月27日(月)
場所:神戸大学大学院人文学研究科・文学部 A棟1階学生ホール
10:00‐12:30 「ヨーロッパ=アメリカの観点から見た1945年以降のフランス大学システムの変容」(講演:クリストフ・シャルル)
13:30‐18:00 日仏大学改革の比較研究
司会:藤本一勇(早稲田大学)、発表:シャルル・スリエ(パリ第8大学)、フレデリック・ネイラ(リモージュ大学)、上垣豊(龍谷大学)、大前敦巳(上越教育大学)、岡山茂(早稲田大学)、隠岐さや香(広島大学)、白鳥義彦(神戸大学)、中村征樹(大阪大学)

主催:科研費研究グループ「日本およびフランスの高等教育改革に関する学際的研究」(研究代表白鳥義彦)(1、3)、日仏歴史学会(2)
共催:日仏会館フランス事務所、公益財団法人日仏会館(1、2)
問い合わせ先:アレゼール日本事務局 tel:03-5286-9723

2012年1月24日火曜日

痰を吐くドゥルーズ

吐き出せ、あの喉にからむ痰を

2012年1月21日土曜日

原子力都市に学生が…

原子力体制を沈めるのは学生だろう。
現在、反原子力を形成しているのはおもに市民である。
だが、市民に反原子力を期待するには限界がある。
なぜなら、市民がすまう社会そのものが原子力権力に捕縛されているからである。

学生とは帰属なき帰属の名である。
そして、そのかぎりにおいて来たるべき生の形である。
学生は市民やWe are 99%とは異なる何かにならなければならない。
その反帰属のコナトゥスにおいてのみ、恋愛が、友情が、共謀が、出来事として到来するだろう。

市民が何を言おうが、学生は市民である義務も必要もない。
学生は反=市民であるべきであり、反=社会であるべきである。
その学生的否定性を原子力都市にたたきつけ、まざまざと君臨させることで、
むしろ、なさけない市民をそのあわれな社会的属性から解放してやらなければならない。

懸命に学生であれ。
2012年、原子力都市に学生が登場する。
反原子力のハリケーンになるのは学生たちである。

2011年12月1日木曜日

大学という原発をトランストテゴる

中央教育審議会も、「知識基盤社会」というのなら、大学を社会の「原発」とするというような思い切った発想の転換を国に求めるべきです。大学では、さまざまな知が干渉しあうことによって知的な発熱が起こり、そのことによって未来の社会を担う人たちの情熱が焚きつけられる。だから大学そのものが社会の「原発」のようなものです。(石田葉月・岩崎稔・岡山茂・島薗進・西山雄二「討議 大学はいかに可能か」、岡山氏発言)

(…)われわれはあらゆるものを読み解きながら生きている。だから解釈の原理をつきつめていくならば、われわれの生の底にふれざるをえない。その意味で、解釈する者はつねにアルカイックな現在を生きているのだろうし、アニミズム的な人称性の問い(「それは私になにを語りかけているのか?」)のもとにある。そしてイヴ・シトンによれば、こうした「解釈の営為」の核心ではたらいているのが「転導性transduction」である。(…)個体やその集合は、モデルや形相の鋳型を外から押し付けることでつくりだされるのではない。「準均衡」という不安定な内在的状態があり、そこに遍在する微細な「ずれ」が相互に共振することで個体の結晶が生まれてくるという。この「ずれ」の共振による伝播が「転導性」とよばれているものであるが、それが解釈の営為をよく説明することはあきらかだろう。テクストが語るという、読むことのアレゴリーないしアニミズムのなかに、解釈する者はつなぎとめられている。そこで生じる「ずれ」をはらんだ「準均衡」状態を解消するために、外部の参照項を導入することは可能である。だが、その場合にも、解釈する者の主観性の「準均衡」状態が先行していたはずであり、解釈は内在しつつも既存の諸領域の「両立不可能性」を横断して生成していく。シトンはこの解釈の内在的かつ力動的なプロセスに人文学の原理的な可能性をみると同時に、ひとびとがみずから神話をつむぎだす「神話政治」をも構想する。体制を批判するだけでは不十分である。それは補綴の役割しかはたさない。解釈の「転導性」において、われわれはみずからの神話そのものを生きるべきである、と。(…)シトン=シモンドンのいうように、神話そのものへの内在=トテゴリーの共感覚的な振動(「ずれ」)に転導が生じるのであれば、大学とはトランストテゴリーなものである。それは内在しつつ、遠く近く伝播する。大学は国家や社会にたいして、読むことの未開の主観性を開示しているだけではない。解釈の転導性に定位しているかぎりにおいて、その未開の神話政治は風のことばとなって詩そのものを撒布していくはずである。(…)そうわれわれはみな、レイテ島を敗走しているのであり、プルーストの語る少女たちであり、マヤコフスキーの一億五千万である。
(白石嘉治「未開の大学 フクシマ以後のために」)

*いずれも『現代思想』12月号「特集 危機の大学」より